グアテマラ アンティグア ホームステイとスペイン語学習日記

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【知らぬ個室、知らぬ家族と扉】

ゆらゆらと漂う水に、感情があるのかどうか知らぬ。
どこかから、ぽたりぽたりと、音を立てて落ちるそれに手を伸ばす。
それに触れている際には、なんの感覚も無くしばらくの時が経つ。
言葉になる前の、でたらめな感情が動き出す。
気付くと水の音に包まれていた。

これは、中米グアテマラでの6週間程の生活を記録したものである。

■【日記】始まりの日
日本の、暑い夏の終わりに出国してから、7ヶ月近くが経つ。日本では、秋、冬が過ぎ、桜が咲き始める時期に差し掛かった頃だろうか。これだけ、長く日本から離れた事は始めてであるから、少しは日本の事が恋しくなるのだろうかと思ったが、今の所まだ無いようだ。「日本の事を寂しいと思わない?」と聞かれ、「いいえ」と答えている内に何だが、薄情な奴に思えてきたので、こんなに遠くに来ているけれど、自分一人で生きていける男だと見せたいのかも知れない、と考えている。ただ、寂しいと思ってしまったら、旅を続ける事なんて出来ない事を知っている。そうでなくても、僕は寂しがりやで、一人暮らしが嫌いなくらいだ。

寂しがりが関係しているのかは分からないが、旅中、ふとした瞬間に、日本の友達が頭の中によぎって、連絡をしてしまう事がある。大体、その後に後悔をする事になる。連絡をすればする程、かえってその人の事を思い出してしまい、よけいに寂しくなるからだ。終わりの無い旅では無いのだから、あと少し待って日本に帰国さえすれば、いくらでも話す事が可能なのに、なんだかこの時を逃したらいけない、或は永遠に帰る事が無くなってしまうのではないかと錯覚に陥る時がある。それは、どこか知らない砂漠の真ん中で目覚めたような気分に近い。多分、そんな事等無いのだが。

そんな寂しさを感じさせない陽気な南米に入ったのは1月の末で、ブラジルからビールを握りしめながら北上し、ボリビア、コロンビアを経て、中米のグアテマラへと向かった。中米で話されている言語も南米と同じく、スペイン語である。オラ!チャオ!グラシアス!グアテマラは物価が安く、スペイン語の訛りの少ないと言われており、多くの外国人がスペイン語を勉強する場所として人気となっているようである。そのグアテマラの中に、アンティグアという場所がある。スペイン語で「昔の」という意味であるアンティグア。古都アンティグアに僕もスペイン語の勉強のためにやって来たのだ。

4月。空は青い。町中は穏やかで、公園の中でバレーボールの練習をしている人がちらほらといる。綺麗な鮮やかな色をした家を眺める事ができ、地面はぼこぼことした石畳が敷かれている。家の壁には色とりどりの花が飾られている。小鳥の囀りを聞きながら、香りの良いグアテマラのコーヒーを飲む絵がなんとも似合う。町の中心にある公園には、緑が多く、現地の人々は可愛らしい民族衣装を纏い、笑顔で歩いている。小さなアイスクリームの屋台や、フルーツを売っている人が少し暑そうにぱたぱたと手を仰いでいる。古都アンティグアは、昔から流れる時がゆっくりと流れる川のように刻まれているかのようである。

ここアンティグアでは、スペイン語の学校に通いながら、ホームステイをする人が多い。ホームステイ。文字通り、家に住むという事。それも、自分の家族でない他の誰かの家に、である。その感覚はどのようなものなのだろうかと、興味があった。

地元で18年間、高校まで実家で育ち、大学から上京。それからは、地元には正月やお盆に帰るようになった。地元では、家庭の都合で僕は2つの家族の中で育った。そして、東京では9人での共同生活で過ごしていた。一緒に住む人によって、家の中の雰囲気は変わるし、「自分がどうあるか」という事も変わる事を知っている。「家族」という言葉は、一番身近にある言葉であると思うし、多分、どんな人も必ず持っていて、大切な存在に違い無い。ただ、なんと言っていいのだろうか。僕は、まだ何か大切な事を見逃しているような気がしていた。そんな、大切な場所で一緒に時間を共にさせて貰える、このホームステイに惹かれていたのである。

学校から貰ったリストを元に、いくつかお宅訪問を終え、僕はアスンシオン家という場所に決めた。近くに山があり、街の中心からは少し外れた場所にある。祖父祖母、父母、子供2人。受け入れ生徒は、僕一人だけだったので、家族の中にどっぷりと浸かる形になる。スペイン語が現在、全く話せないので、不安も勿論あるのだが、楽しみである。

家の玄関を開けると、左手に一部屋ががらんと空いているのが見える。おばあちゃんに案内され、ここの部屋をどうぞと通される。この旅で、個室に泊まるのは中々無いので少し新鮮だった。と同時に、別の違和感があるのだ。僕が知る限り、【僕の個室】は実家にしか無い。それなのに、これからはこの知らない個室で僕は生活をする事になるのである。

【知らぬ個室と知らぬ家族の中で】

それは、まるで自分の名字が変わり、帰る家も変わった時の感覚に近かったかも知れない。その扉を開けた先に広がる景色は、なんだか少し現実を曖昧に感じさせた。

初日、部屋について荷物の整理をする。これから1ヶ月程お世話になる部屋をぐるぐると歩き、窓を開け机に座ったり立ったり動き回る。しばらくして、お昼を向かえ、「みち!」と名前を呼ばれた。ダイニングの扉を開け、食卓のテーブルに座る。僕は、緊張しながから、ダイニングの部屋を見渡す。左に見えるキッチンでおばあちゃんが料理をしていて、おじいちゃんは僕の隣に座っている。他の皆は、仕事だったり学校だったりでいなく、3人で食べるようだ。おばあちゃんは、笑いながら僕を見て何かを話してくれて、とても陽気だ。そして、おじいちゃんもなにやら、楽しそうに笑っている。こちらもつられて一緒に笑っていた。何も言っている事は分からないが、居心地の良い空間だ。

朝6時半。扉の音で大体目が覚める。子供の【リケ】と【セバスチャン】が、学校に行く時間である。おばあちゃんは、彼らを学校まで見送ってから、僕の朝ご飯の準備をし、大体7時頃に「みち!」と大きい声で僕を起こしてくれる。呼ばれた後に、僕は部屋の中で大きく伸びをしてから、のろのろとダイニングへと向かう。「おはよう!昨日はよく眠れた?」「おはよう!よく眠れたよ」なんて会話をして、朝ご飯を食べてから、学校に通い、昼ご飯を食べるために一度戻り、また学校に行く。そして、夜にまた家へと帰ってくる。こんな生活が始まった。

なんだか、ホームステイというのは、緊張をするのかと思ったが、そんな緊張をする余裕も無い程、溶け込めたように思える。というより、話す事に必死だったのだが。食事の時には、おばあちゃんが、「学校はどうだった?」と聞いてくるので、ノートを開きながら今日習った動詞の復習が始まる。おじいちゃんとおばあちゃんが作った例文を僕もなんとなく繰り返す。その光景は少し、子供達にとっては不思議そうに見えるようで、彼らは僕をじっと見つめていた。まるで、猫が今まで見た事も無い人間を見ているかのように。その静かな子供達に、僕も積極的に話しかけるのだが、中々話を続ける事が勿論できるはずもなく、その沈黙がまた戻ってくる。ただ、おばあちゃんとおじいちゃんは、そんな沈黙とは別に、僕と積極的に話してくれる。そして、何かに笑う。そんな日々が続いた。

アスンシオンのおばあちゃんの料理は美味しかった。グアテマラの料理がなんであるのか、あまり詳しくないのだが、いつの日も食事は楽しみだった。おばあちゃんは、料理が好きなようで、毎日違う料理を作るようにしているらしい。
「料理は好きなの?」と僕が聞くと、
「ははは。料理は好きだよ。NYで家事手伝いの仕事をしてた事もあるよ。ははは」と陽気なおばあちゃん。食事中、大体肉料理から先に手を付け、野菜を後で少しずつ食べていると、「はっはっは。野菜が嫌いなのかい?」なんて、笑っている。野菜が嫌いな訳ではなく、好きな順に食べていると大体そうなってしまうのだ。
そして、
「みちは、野菜が嫌い」と僕に言って来るので、
「NO!野菜は好き!me gusta!」といつも笑いながら答える。この食事を一緒に食べる事で、彼らの空間に少しずつ入っていける。

寝る前には、2人の子供も「みち。お休み!また明日。」なんて言ってくれる。こちらも、「Buenas noches!」と手を振りながら、自分の部屋に戻る。

通っている学校も楽しい。学校では、全てスペイン語で行われる。新しい語学に手を付けるのは、中学で勉強を始めた英語以来だろうか。中学の英語の授業とは違い、目の前にはグアテマラの先生が座っているのだが、【本格的な】語学勉強だ。マンツーマンの授業であるため、勿論僕が話さないと授業は進まないし、喉も乾かない。先生は、日本語は勿論、英語も殆ど話せないため、分からぬときは、絵を書いてもらったり、ジェスチャーをしてもらったりする。最後の手段では、辞書も引くのだが。全く勉強もした事が無い言語の0からスタート。文法も単語も知らない。耳で音を聞いて、オウムのように繰り返して発音をする。ただ、英語と違い、動詞が主語に依って変化するので、そのままオウム返しできないのだが。現在系の動詞から始まり、不規則に変化する動詞、そして、過去形へと進んで行く。ただ、過去形がなぜか2つあるのだが。

アンティグアに来て3週目に突入した。相変わらず、まだ家族との会話と言う名の、アスンシオンの家族の質問に対して、僕が少し答えるというスタンスは変わらない。最近では、2人の子供も僕に話しかけてくれるのだが、やはり何を言っているか分からない。相変わらず、おばあちゃんは、僕に親切で大声で話してくれるし、おじいちゃんの滑舌の悪い言葉は聞き取れないのだが、食器の名前を一緒に言ったり、野菜の名前を一緒に言ったりして練習をする。みんなで一緒に箸の持ち方の練習をしたりして、なんとかコミュニケーションを取る。やはり、新しい言語を覚えて話すというのは、中々大変である。

そんな、ある夕食の時、小学校に通っている「リケ」が食事中にずっとケラケラと笑っている。それに釣られたように、もう一人の子供「セバスチャン」も笑っている。それも、なんかか僕を見ながら笑っているのだ。この時、彼らが何についてずっと笑っていたのかは分からないが、彼らはおばあちゃんやおじいちゃんに怒られていた。この雰囲気が数日続き、少し悲しくなってしまった。これは、コミュニケーションではなく、一方通行のそれはテレビを見ている人の反応に近かったと思う。この食卓の向こうが遠く感じた。やはり、言葉が分からないというのは、辛いのである。

しばらくして、なんだか分からないのだが、疲れた日々が続いていた。中々スペイン語が上達しなく、少し辛いというのはあるのかもしれない。旅に出て来てから長いので、疲れがあったのかもしれない。と言い訳をしても、地球の自転の向きが変わる訳でもなく、何かが変わる訳ではないので、何気なく日記帳をパラパラと捲ってみた。

【スペイン語を勉強する理由】

・中南米がかっこよさそう
・陽気な人達と会話してみたい
・英語と似ているから、覚えるのが簡単そう。

というあまり良くも分からぬ興味から始めているので、その過去の自分の適当な感覚に笑いながら、今はとりあえず、家族と会話するためという理由にしておこう、と決めた。少し出来るようになってから、もう少しかっこ好い理由でも付けてみようではないか。アンティグアの楽器店で購入した、太鼓を家の近くの公園で叩きながら、綺麗な空を眺めた。目を閉じながら、ブラジルで習ったリズムを思い出しながら、太鼓を叩く。タカラタカラタカ。語彙を増やして、先生と話して、家族と話して、太鼓叩いて。これを地道に繰り返すのみ。

ある休日、近くのカフェに行こうとした時、ずっと向こうにアスンシオンのおじいちゃんとおばあちゃんが見えた。手を組みながら、歩いているのである。おじいちゃん87歳。おばあちゃん76歳。おじいちゃんは、すっと背筋を伸ばし、少しおばあちゃんが寄りかかるようにしている。そして、僕に気が付き、「みち!」なんて、手を振ってくれた。毎週、休日の朝にメサ(キリスト教のお祈り)に出かけているのだが、なんとも微笑ましい光景だった。そして、家に帰ると2人の子供リケとセバスチャンは「おばあちゃん」と言いながら、抱きついている。この光景を見た瞬間、体の中を風が駆け巡るような感覚に陥った。この家族に導かれた理由が分かったような気がした。

ここ、グアテマラでは、彼らの中心に紛れもなく「家族」がある。家族の周りに、仕事や友達があるのだろう。そんな大切な「中心」をこのように、僕は幾度となくはっきりと見る事が出来た。そして、僕もここにいながらその優しさを受けた。些細な事を話しかけてくれるだけでいい。その小さな事から小さな愛情を感じるのである。彼らは、みんなで家族であるのだ。

グアテマラは雨期に入った。一日一回は、雨が降る。雨の影響なのかは知らぬが、停電も時々起こる。暗くなった部屋で、ろうそくの光に照らされたご飯を食べる事にも慣れた。2人の子供リケとセバスチャンとも打ち解けてきて、これから始まるブラジルW杯の選手の話をしたりする。そして、ここに来てから、5週間が経っている事に気付く。それは、来週の今頃には、もうここを出発する事を意味していた。実感が無い。いや、ただ考えたく無くなかった。この居心地の良い、ここを離れる事が。せっかく、彼らの中心を覗け、そこに僕も近づいている最中であるのに。

次の場所までの移動のチケットを取る事は、ぼんやりとしたそれを現実にする。パソコンを開けて、決定のボタンを押すのが重い。この購入のボタンを押すと、急に目の前に出口が現れるのだ。くっきりと。今まで、まるで無限に広がっているかのように感じていた空間に突如はっきりとした扉が見えるようになる。一度現れた扉が近づいてくるのか、僕が近寄っているのかは知らぬが。この終わりの扉を見る事は旅で何度もあったが、いつだって嫌だった。

そして、1週間は静かに経った。いつも通り起きて、学校に行って、食事を家族と一緒に食べた。アスンシオンの家族もいつも通り、おばあちゃんの大声と子供のW杯の話しと、僕へとのお休みの挨拶で日々は流れた。学校も最終日を迎え、町を少し散歩した後、僕は家族へのプレゼントを買って、最後の夜を過ごした。みんなで一緒にケーキを食べ、22時頃、いつものようにベットに横になった。

初日、不思議な感覚を覚えたこの部屋も今では、僕の部屋の一つのように思える。良い家族に恵まれた。とにかく、優しく迎えて貰えた。色々な事を思い出している中に、いつの間にか眠ってしまっていた。

翌日、日が昇り部屋が明るくなる。そして、おばあちゃんの声が聞こえる。

「みち!」

この声を聞くのはこれが最後なのだ。
もう一度、名前を呼ばれるまで、なんとなく部屋のベットに座っていた。

「みち!朝ご飯だよ!」

そして、リビングの扉を開けた。

■追記 終わりの日の始まり
ドアから入り込む光がいつもより眩しい。中米グアテマラでホームステイ先の最後の朝ご飯で、マンゴーとメロンを食べようとしていると、目から零れ落ちるそれが頬をするりとつたり、そのままダイニングのテーブルの上へとぽたりぽたりと落ちる。濡れた目を必死に拭いながら、マンゴーの皮を剥いて、いつもよりも余計にナイフで切れ目を入れる。口に入れても味などしなかった。少しの塩気を感じただけだった。そして、顔を上げると目の前のおばあちゃんが、やはり僕をじっと見つめてくれるのだ。日本から来たこのただの一人の若者に対して、何もスペイン語を話せない旅人に、どうしてこのように接してくれるのだろうか。感情に支配されると、言葉を上手く使えない。言葉を必死に絞り出そうと必死に喉に力を入れた。必死に。

終わり


サルバドール ナタカトシア太鼓日記

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2014年。1月の下旬。
僕は、エジプトのダハブに着いた。スペイン巡礼が終わり、心の中は波音を立てる事を忘れてしまった海のようだった。岬で海を眺めながら、太陽の昇り沈みを見る日々が続いた。旅をしていると、海の中にいる何かに惹かれて、水を蹴散らしながら進む激動の時と、それを終えた静かな状態との繰り返しが僕の中にはある。経験を比較する事なんて、まるで無意味な事だと沈みゆく太陽は教えてくれるのだが、次にやる事はスペイン巡礼とは、また違った匂いのする何かをしようと思っている訳である。それを探している内に、見えなかった月が徐々に満ちて来て、日々何かしらが僕の周りで変わっている。今、何をしても良い状況、つまり自由の世界にいるのだが、この世界にいると、無限に思える程の選択肢の中から、何かを選ばなくて行けない。自由の中で暴れなくてはいけぬ。自分の中に選択肢の優劣が見えていないと、せっかくの自由の世界にいながら、ここを流れる惰性に従って動いている感覚に陥る。自分で踏み込んだ理想郷にいながら、自分を嫌悪させる。とはいうものの、中々自分の中に優劣のものさしを持つ事は難しい訳なのだが。現在、海外を自分の好きなように移動を続けているのだが、海が突然一つの方向に向けて流れ出し、自分で自分を止められないくらい突き動かされる瞬間がある。それが見つかれば、そこまで必死に泳ぐだけである。

アフリカ縦断を考えていた。期間は、1ヶ月から2ヶ月程。ダハブの宿で既にアフリカを回った人の話を聞きながら、構想を膨らませる。虹色に輝く砂漠。火山。野生の動物。そして、これから南下をするという人を見つけ、一緒にスーダン、エチオピアまでバスで下り、まずはケニアを目指すという、ざっくりした予定を立てた。宿のスタッフに頼み、バスのチケットを買った。出発は、3時間後。受付にバックパックを預け、宿に泊まっている人と今年行われるブラジルのワールドカップやカーニバルの話で盛り上がった。

「ブラジルではリオのカーニバルが有名だけど、サルバドールという街を知ってる?」

「ブラジルのどこ辺り?」

「東だね。海が見える街で、世界遺産の街なんだけど、その街に、日本人だけでチームを組んで、カーニバルに出ている団体があるの」

「ブラジルの本番のカーニバルで叩くの?」

「そうそう。宿に集まって、1ヶ月程ずっと練習をしてから出るの。合宿みたいに。チーム名は、【ナタカ トシア】プロで楽器をやっている人から、素人の人まで集まって、皆本気で練習をしてから出るんだ。私は、去年出たんだけど、本当に楽しかった。そして、一緒に共同生活をするから、仲良くなるし。そうそう。これが去年の動画」

僕は、動画を食い入るように見た。あるチームが、街中で太鼓を持ちながら練り歩いている。動画の先に広がる、迫力が伝わって来た。

「凄いですね」
「一打一打、魂を削るように叩いているの。この動画だと、あまり分からないかもしれないけど。」

出てみたい。本能が叫ぶ。その場で音を聞いてみたい。叩いてみたい。今まで、太鼓等叩いた事は無いが、太鼓を叩くというのは、どんな気持ちなのだろうか。カーニバルに参加する側というのは、どんな感覚なのだろう。心臓の鼓動が早まる。

「今年のカーニバルは、2月の下旬からだから、早い人はもう今頃練習を始めている頃かも。行くなら、絶対に早く行った方がいいよ」
現在、1月の末。ちょうど、一ヶ月前。

直ぐにダハブからブラジルまでのチケットを調べた。値段は安くない。アフリア大陸から、南米まで20時間以上のフライトだ。もし行くなら、一緒にいくはずだった4人の日本人にアフリカを南下する計画から外れる事を伝えねば行けない。非常に悩む。せっかく一緒にメンバーを見つけ、計画を立てたのに。遥か日本から遠い、アフリカ大陸に入ったのに。ダハブの海を眺め、そして目を閉じ、静かに考えた。俺は何がしたいのだ。ある言葉がふと浮かぶ。旅の最初のお祭り、バーニングマンの言葉。

【No Specter】

傍観者であるな。表現をする側でいろと。そっと胸に手を当て、僕はブラジルへ向けた飛行機を購入した。遠い海から感じる強い力に惹かれ、僕は舵を切った。

アルゼンチンのイグアスでブラジルビザを取り、サルバドールまで飛行機で飛んだ。サルバドールの夜遅くの空港は、少し異様な雰囲気だった。目をギラギラとさせた人が多く、少し怖い。空港のインフォメーションで宿の場所を伝えると、
「赤いバスに乗れ」
と言われ、バスとタクシーを乗り継ぎ、1時間程で宿に到着した。

宿の入り口は、鉄の柵がしてある。
「こんばんは!」
ドアの前から、少し緊張しながら、僕は声を出した。そして、少し縮れた長髪を結んだ男の人が入り口に降りて来た。
「どうぞ。」
この人が、日本人チームを纏める、リーダーのなおやさん。ちょいと怖いので形式ばった自己紹介をしながら、階段を上り、宿の受付へ行く。この宿は、なおやさんの宿なので、なお宿と呼ばれている。到着した時、他のメンバーは外出中で今日到着したカップルと、エジプト風美女しおりさんがいるだけだった。部屋の中には、楽器やら、バチやらがチラチラと見える。これから、ついに始まるのである。今まで、一度も音楽をやった事ないので、不安で一杯だが、出来るだけやろうと誓う。そして、この日の夜、偶然にも街で他のチームが太鼓を叩くというので、街まで足を運んだ。

サルバドールの街は熱気に満ちあふれていた。多くの人が音楽に合わせて体を揺らしている。街の中に音楽がしみ込んでいる。小さな子供が楽器を持っていたり、ダンスをしていたりとブラジルの日常をかいま見た。ただ、地面には、多くのオレンジ色のビールの缶が捨ててあったり、ぼこぼことした石畳に坂道が多くあったりと、少し歩き辛い。しばらく歩くと、前方から太鼓の音が聞こえた。細い街の道に太鼓を持った人が隊を組み、歩いている。先頭にいる金髪で刈り込まれたリーダーらしき人の音が激しく散る。それに合わせ、他の音が乗っかる。後ろでは、大きな太鼓をリズムに合わせて上げ下げしながら叩く人がいる。圧巻の演奏だった。そして、こんな日常がこの街には、あるのか。彼らのリズムが僕の体を貫くのが心地いい。その隊は僕の目の前を通り過ぎていく。自分も、この街で太鼓を叩くのか。まだまだ、先が見えぬ。

僕は、本館から少し離れた別館に泊まる事になった。着いた日には、別館の宿のメンバーは僕を合わせて5人だった。
・34歳 イケメン、今後タイ在住予定のおーすけさん
・25歳 独特のトーンで話す、カポエイラリスト たか
・27歳 元気印の名を欲しいがままにする あすか
・45歳 インドを愛する永遠の旅人 ふくさん
・26歳 鼻の形がニンニクに似ていると定評のある自分

みんなにサルバドールのカーニバルになぜ参加しようと思ったのか聞いてみた。

「やっぱり、お祭りに参加できる側だから」

日本ではリオのカーニバルというのが有名だと思うが、勿論外から眺める観光になる。海外で、参加できるお祭りというのは中々聞いた事がない。しかも、ブラジルのカーニバルに参加できるという事で、みな興味を持っているようだ。たかは、4年前のカーニバルに参加して、楽しかったため今回も来ている。あすかも、日本でチームを組んで叩いているらしいのだが、そこでこのなお宿の話題が良くでるようだ。今回は仕事を少し休み、埼玉秩父からこのカーニバルのためだけにやって来た。これから、始まる新しい日常が楽しみである。明日の練習は、朝9時からという事だったので、早めに就寝した。

朝起きると、あすかが朝ご飯を作ってくれている。誰に頼まれた訳でもないのに、なんとも優しく気が利く人だ。シャワーを浴びて、準備をして、みんなで練習をするために本館へと向かった。

僕らの練習は、【バチ練】と呼ばれるものから始まる。
メトロノームの音に合わせて、プラスチックで出来たバチを持って叩くのである。メトロノームが1回鳴る間に1回叩いたり、4回叩いたり、途中でアクセントをつけて叩いたり。
【因に、メトロノームが1回なる間に4回叩く、刻む事を16を刻むと言う。メトロノーム1回を1拍と言い、4拍で1章。1章で16回叩く事になるのだ。】

バチを叩く際に、最初に教えてもらった、注意事項はこんなものだった。
・手首で叩く。腕で叩かない。
・叩く時は、粒を細かくする。叩く時にベチっとした音が鳴らないように。
・力まない

最初、なおやさんが叩くのを見てみんなで一斉に叩く。しばらくしてから、一人ずつ叩くのだが、これが凄い緊張する。みんなで叩いている時は出来ているような気がするのだが、一人でやると無惨なのである。音に集中すると手がおろそかになり、逆も然り。何回か叩いてもダメだと次の人へと回る。これを円になって皆でやっているのだが、自分の番が近づいてくるにつれて、手に汗を握り、心臓の鼓動が聞こえてくる。メトロノームの音が遠く感じる。イメージと体の動きが違う。左手が思ったように動かぬ。何も出来ぬまま、あっと言う間に、初日の午前の練習が終わった。

「このバチ練が全ての基礎になります。頭の中で常に【タカタカタカタカ】と音ならして下さい。16を刻む事が本当に音楽の土台なので、個人で練習をして下さい。」

午後は、別館に戻り、あすかを中心に、バチ練を行った。そう。全ては、このバチ練なのだ。手首を意識し、音を意識し。練習が終わってから、別館のスペースでメトロノームを聞きながら、【タカタカ】とリズムを刻む日々が始まった。一緒の部屋のふくさんは、メトロノームを聞きながら、寝ていたりした。寝ている時にも、メトロノームの音が頭の中に流れる。ピッピッピッピ。こいつは、機械的に音を刻む。人間が、機械になる訓練。訓練という名のものは、大体機械に近づく作業に似ている。

数日して、肌が程よく焼かれた、日本でクラブのイベントを仕切っているHiroさんが入って来た。人と集団行動をする事をあまり好まない、一匹狼のような人だった。入って来て直ぐに、この基礎練、バチ練をする意味が分からないというようだった。

「この、メトロノーム刻んでどういう風に役に立つん?それよりも、太鼓叩いた方が、効率的なんじゃないん?」

僕もこれが基礎になると聞いていたが、どのように役に立つのかは分かっていなかった。確かに、基礎がどのように役立つのかというのは、中々分からない事が多い。ただ、僕のような初心者は、最初の土台を作らないと行けない。自分で判断ができるようになるまでは、誰かに従わねば、前に進めぬ。それまでは、辛抱しなくては。

練習が始まって数日後、宿の地下室で実際に楽器を持った練習が始まる。階段を降りると、そこに防音のクッションが張られた空間がある。腰にベルトを巻き、太鼓をかける。ずっしりと重い。
楽器は4種類。
・なおやさん率いる縦長の楽器  チンバオ
・チームのリズムの要  小太鼓 ヘピニキ
・裏打ちを奏でる  中太鼓 メイヨ
・重低音を出すリズムの柱 大太鼓 フンド

僕は、最初フンドから始めた。メトロノームが鳴るのと同時に音を鳴らす、大切な楽器である。大きなバチを持って太鼓を叩くと、低い音が広がっていくのが分かる。初めておもちゃを与えられたような子供のように、無性に嬉しくなる。太鼓の皮が振動し、その震えが体に伝わるのが心地よい。

この週末、僕らは他のチームと合同練習をする事になった。初日に見た、街中で太鼓を叩いていたあのチームとである。どんな形式で練習をするのかは分からないが、楽しみである。
昼頃に、太鼓チーム「SWING」のオフィスを皆で訪ねた。金髪で刈り込みがしてあるリーダーが僕らを迎えてくれた。そして、すぐさま細い道に出て練習が始まった。彼が叩く音を真似て、僕らは叩く。そして、即興で練り歩きが始まった。このブラジルの街で東洋人だけのチームはもの珍しいのだろう。現地の人や観光客が集まる。ただ、僕らの心境としては、こんな完成に程遠い状態で音を出して、申し訳ないという気持ちで一杯だった。苦笑いをしながら、僕らは歩いた。舗装がまばらな石畳の道は、太鼓を持ちながら歩くと非常に歩き辛い。途中、太鼓を叩く手も痛くなり、少しずつ集中力も切れてきた。途中、観光客が写真を取ってくれというので、僕がそれに応じていると、メンバーから注意される。

「リーダーから目を離すな」

僕ら日本人チームのために、現地チームのリーダーが時間を割いてくれている訳だから、当然だ。この時、まだチームとして太鼓を叩いているという覚悟が足りなかった。この練習が終わってから、地下室でおーすけさんに太鼓の音の出し方を習った。自分の甘さを反省しながら、バチを握り、音出しの練習をした。

次の月曜日、なおやさんから、志望楽器の調査が行われた。この日から、地下室での練習時間を増やし本格的な練習が始まるようだ。
僕は、【小太鼓のヘピニキ】を志望した。合同練習でも一緒に教えてくれたサルバドールの太鼓チームの金髪リーダーの音が鮮明に頭に残っていた。雄々しい獣が手綱を引いているかのように見えた。僕より前入りしている4人と僕とほぼ同時期に来た同室のふくさんとへたれ王子(26歳)の、初心者3人の計7人。初心者の3人にマンツーマンで指導をしてくれる先輩がついた。自分には、ビールを握りしめる元保育士(31歳)

このへピニキという楽器は、16を刻みながら、アクセント【アタック】とそっと叩く【ゴースト】で大体成り立っているようである。必死で、僕ら3人はへピニキの楽譜を写し、練習を始めた。地下室の練習で、早速へピニキとチンバオの合同練習が始まる。だが、僕ら3人は何も刻めない。ただただ、皆が叩くのを見ているだけだった。音に入って行けない。それを見かねたなおやさんが、僕ら3人だけの練習をしてくれた。

最も基礎のサンバという楽曲の【タカラタカラタカ】というリズムを叩く。3人とも個人で練習をしていたはずなのだが、なおやさんの前になるとリズムが全て消え飛んでしまう。初日のバチ練のような緊張感。僕らは誰一人正確に叩けなかった。
「太鼓を叩く前の問題です。基礎がなってないっす」
うな垂れながら、僕ら3人は練習を終えた。各自、個別のペアの先輩から再度叩き方を習う。練習あるのみ。

水曜日。志望楽器の調査の2日後、僕ら3人は、大太鼓のフンド行きを告げられる。へピニキ人生が2日間で終わった。この日が丁度カーニバルの2週間前。各楽器の人数構成をふまえ、なおやさんが下した決断だった。へピへの未練はあるものの、気持ちを切り替えて行かなくてはならぬ。翌日から、フンドとしての練習が始まる。Hiroさんがリーダーになり、ふくさんとへたれ王子達と必死にフンドの叩き方や、リズムを覚える。

練習が行われる地下室は、閉め切ったサウナのように暑い。練習開始してすぐに、汗が太鼓の上に滴る。バチを握る手が汗で濡れ、滑りやすくなる。着ている服で手を拭きながら、必死に叩く。この太鼓を持った練習は楽しかった。自分の楽器の音がする。そして、他の楽器と音が合わさる時には、なんと言えぬ気持ち良さがある。最初は、自分の音を叩くだけで一杯だったのだが、徐々に全体の音が聞こえるようになって来る。ある日、僕は久しぶりに日記を書いた。

サルバドール@なお宿
このサルバドールのカーニバルを何と例えたらいいのだろうか。
上品さ等いらない。荒削りでよい。

荒れた海を踊る船のようである。
その船は波の呼気に揺られながら、進んでいく。

海の上には濃霧が強い。
他の仲間の姿が見えぬ。

ただ、どこからか聞こえてくる音に合わせて
ステップを踏もう

次第に霧が晴れ、空が見える
進むべき海が見える
仲間が見える

そして、海の上には、船を引っ張る人が見える。

僕らは踊る。

そして、空へ向けて飛び出した。
自由だ。

終わり。

フンドのチームにも新しいメンバーが加わり、本番までの日が1週間と少しになった。皆でリズムも覚えて来て、順調に進んでいるかのように思っていた。ある昼、僕らはなおやさんに呼ばれた。

「最近、どうっすか」
皆の少しの沈黙を破り、日本から、このカーニバルのためにサルバドールに来ている、さっちゃんが口を開いた。

「私は、全然ダメだと思っている。皆が何を考えているか分からない。Hiroさんがリーダーをやっているけれど、実際何もいい方向に導いていると思わない。練習が始まる時間も決まっていない。なんとなく集まって、なんとなく始まる。練習の内容も突然変わったり、何をしているのか、正直分からない。そして、それに対して誰も何も言わない。この状況が本当に嫌。」

この時、チームとしてどういう状態なのかという事について、考えていなかった事に気付いた。さっちゃんは、このカーニバルのために日本から来ている訳である。他のメンバーは、世界一周の途中で寄っているという感覚に近かったのかもしれない。さっちゃんと僕らの大きな違いは、モチベーションの差だった。僕らは、現状のこの程度で良いとどこかで思っていた。音を刻める人は、チンバオ、へピ、メイヨに行き、いつのまにかフンドチームはお荷物のように見られるようになっていた。また、あのフンド、音ずれてるよ、と。音を正確に刻める人もいなく、いつの日からか、僕はこの程度でという空気が蔓延していたのかもしれない。そして、この日から、朝練習の前にフンドチームの練習を行う事。練習前と練習後に話し合いをする事を決めた。僕らのフンドがチームとして始まったのは、この日だったのかも知れない。

翌日から、キビキビとした練習が始まる。朝時刻通りに集まり、ミーティングを行う。練習時間、休憩時刻も区切った。そして、僕らだけでは、音がずれているのかどうか分からないため、音大卒の目力の強い、チンバオの【のぶサン】に練習を見てもらうよう心がけた。この日以来、僕の日記帳は、チームの課題とその対策方法をどうするかという事で埋められるようになった。

本番まで1週間を切った、最後の日曜日。また、問題が起こる。練習の開始時刻になっても、メンバーが集まらなかったのだ。別館にいた、ふくさんと僕以外の誰も。翌日の月曜日のミーティングで普段は大人しい、ふくさんが声を荒げた。

「なぜ、昨日他のメンバーは来なかったのか教えてくれよ。全体で、毎日朝練習をする事を決めたじゃないか。」

サッカーをしていたメンバーがいた。宿で寝ていたメンバーがいた。

「本番までもう1週間を切っているのに、自分勝手な行動をするのは正直考えられない。」

正直、僕も日曜日に僕らを結んでいる糸が暗闇の中で音を立てて切れたように感じた。終い。了い。僕らはチームである。各自の楽器を正確に刻むだけでいいという訳でも無い。お互い、コミュニケーションを取りながら、お互いの関係を作り上げて行くものだと、なおやさんが何度も言っていた。しかし、僕らはお金をもらって楽器を演奏するプロフェッショナルな集団では無い。各自の好きで、この宿に集まって練習をしているから、嫌に成る程の練習を強制させる事等できない。この話を切り出す事は中々難しかった。この話をする事で、メンバーに圧力のようなものをかけてしまう事を恐れた。ただ、ふくさんが先陣を切って話してくれたお陰で、何が問題だったのかも分かったし、チームとしてまた前進が出来た気がする。あの時、何も言わない方がもっと問題だった。納得しながら僕らは、少しずつ進む。

衣装の作り込みをしたり、リズムの最終確認をしたりして、カーニバル本番直前となった。僕らの出番は、土、日と火曜日の3回。本番前最後の練習が終わった。あとは、練習でやって来た事をやるだけだ。初日の土曜日は、強い雨だった。衣装に着替え、メイクアップした僕らは、宿で待機をしていた。興奮が止まぬように、始まる前僕らはこの日誕生日の人を祝いながら、気分を高鳴らせた。午後8時。出陣の時が来た。

なお宿の前の通りでなおやさんを最前列に従え、隊を作る。
夜。辺りは、暗い。周りには、まだ人もいなく静かだった。
一瞬の静寂。そして、音が静寂を切る。
音が、外へと広がっていく。開放感がある。
全身が震えてくる。
嬉しさと興奮が飛び出す。
この日のために僕らは練習をしていたんじゃないか。
街中にこの僕らのチーム、ナタカトシアの音を届けたい。

ただ、途中から、音がズレだす。楽器を持ちながらの練り歩きで、いつもより、列が長くなってしまい、前の音が聞こえない。前列と後列で奏でる音がズレる。僕らの隊は、引きちぎられたような列車のように別々に走り出していた。2時間程の演奏を終え、宿へと戻った。本来ならば、みなで祝杯を上げているはずだったが、そんな雰囲気ではなかった。
「こんなはずではなかった」
皆が、そう思った。本番で、舞い上がってしまったのか。周りの音を聞け。隊を小さく纏めよ。コミュニケーションを取れ。そして、隊列の変更と注意事項を皆で徹底して共有した。初日は、不完全燃焼。悔しかったのは、多分僕だけでは無かったはずだ。

2日目、そして最終日と、どんどん音が纏まって、気持ちよく駆け巡るナタカトシアを感じた。皆が笑い、音が弾け、彩り綺麗な興奮が止まらぬ花火のように咲き続けた。最終日、広場から路地に抜ける僕らの最後の場所で、今までの練習を急に思い出し、涙ぐみながら、太鼓を叩いた。持てる力を全て注いで。街中の人も体を揺らしている。そして、練り歩きは最後の楽曲アトゥーンへと変わった。リズムが早い、疾走する音楽だ。気付けば、僕らは街中で人々に囲まれていた。初日の夜に見た、太鼓を叩いている集団を見てから始まった。今、僕らはその演奏側にいる訳だ。あのチームにどれだけ近づけたのは分からないが。街が綺麗だった。一人一人の表情が良く見えた。知らぬ街で見えぬはずの音を通じ、僕らは通った。街の光に照らされた音が、虹色に見えた。アトゥーンのフィナーレが終わった後も拍手は止まらず、アンコールが始まる。そして、僕らはもう一回太鼓を叩き、そして僕らは幸せな馬車のようにその場を駈け去った。

こうして、僕の1ヶ月程の太鼓生活は終わった。カーニバルが終わった後、手は痙攣しかけていて、握り開きをするだけで痛かった。満身創痍という言葉は大袈裟かもしれないが、ただこの痛みは気持ちよかった。リズムを刻めず、何度も悔しい、悲しい思いをした。今となれば、基礎の16を刻む事の大切さを感じる事ができる。深夜、急にメンバーから抜き打ちのバチ練が始まったりした。音がずれていて、何度なおやさんから止められただろうか。音を聞けと何度注意されただろうか。僕らのフンドチームは、他のどのチームより問題の多く、多く話し合いをしたチームだったように思う。ただ、遠いアフリア大陸から太鼓を叩くためにやって来て、よかった。本当に、楽しかった。音楽を自分が奏でる側の喜びを、楽しさを少しは分かった気がする。

カーニバルが終わってから、僕らはしばらくなお宿にいた。
ここを去るのが寂しい。多分、みな同じ思いだったと思う。一緒にいる時間が長ければ長い程、別れるのが辛い事を知っている。

今、地下室の楽器は綺麗に整列している。最初に、フンドチームのhiroさんが去り、いつも皆に笑顔をくれたあすかが去って行った。メンバーが去る時に囲む円が徐々に小さくなって行く。毎朝、朝ご飯を食べる人が減っていく。僕らの演奏は終わったんだ。2014のサルバドールでのナタカトシアは終わったんだ。太鼓を叩いた手の痛みが消え行く。燃えた火で暖まるのも終わりである。別れの時に、皆のどれ程の涙を見たか分からない。今度は、僕がこの街を去る時が来たみたいだ。

タカラタカラタカ。

終わり


井戸とラクダ

【井戸とラクダ】

始まり。

井戸の中に落ちたい。そんな衝動を抱く事がある。あの、ずっと下まで続く空間の中に入り、その一部になりたい。井戸の底で自分を見つめ、空を眺め、雲が動くのを確認し、目を閉じる。これは、生きている空間と、想像・記憶とを繋げる作業である。この出来事を一度、二度と繰り返している間に、自分が今ドコの空間場所にいるのか分からなくなる。うねりの中へと入る。境界がぷつりと消え、砂漠のような海を見る。足を止め後ろを振り返ると、足跡が刻まれている。不思議な程、くっきりと。風が吹くと、跡は消える。また、ここからの始まり。時間のいたずら。時間と自然は仲がいい。彼らは、知っている。砂漠にいる大きな鳥の鳴き声で、世界が始まる事も捻れる事も。

終わり。

皆さま

 こんばんは!恩田です。日本を離れて半年が経ちました。そろそろ、蕎麦とわさびの匂いが恋しくなって来た頃です。誕生日に日本を出国してから、アメリカに入り、東南アジア、スペイン、アフリカ、南米へと移動をしております。

今、こちらは夏。日中の気温は30度を超えます。南半球って、本当に季節が逆なんですね。はい。世の中にどれだけの国があるのか数えた事がないですが、本当に、見た事の無い文化があって、人がいて、リズムがあるんですね。たまたま、僕は東洋の島国の雪が降る地方出身の一人であって。新しい場所に行く度に、新鮮な感覚を触る事が出来ます。そして、その感覚を味わって。

旅に出た理由や現在感じる事等を書きたいと大真面目に思って、この文章を正座をしながら書き始めたのですが、片手にビールを持っている現在。もっと後になると違う理由が分かるのかもしれないですし、そもそも理由なんて言葉の世界に存在しているだけの住人なのかもしれない。僕らは、笑いたいから笑うし、泣きたいから泣くし、食べたいから食べる。そんなものなのかもしれない。僕らが会話するためには、どんなコトバで話せばいいのだろうか。家のお話と、うねりのお話と、井戸のお話。

 2011年。僕は、大学を卒業し、社会人になった。

社会人になって何かが直ぐに変わったという事は無い。来週の自分も昨日の自分も大体同じである。急に空を飛べるようになった訳では無い。唯一変わった事と言えば、シェアハウスを始めた事だろうか。三軒茶屋の2LDKに友人の男5人。そして、恵比寿で戸建てを借りて、男9人で。一つ屋根の下で一緒に暮らす生活。18まで一人っ子だったという事もあり、僕は単純に寂しがり屋なのだと思う。誰かと一緒にいたい欲が強いのかもしれない。家に帰ってきて、誰かがいて、気軽にどこかに行くのを誘えて、相談もできる。そんな空間・居場所を望んでいたのかもしれない。

>>土曜の朝に男数人でお洒落なパン屋でブランチなんてしてみたり、歯磨き粉を洗面台に置くか、お風呂場に置くかで真面目に議論をしたり、たらりらたらりら。

自分の中を支えていた、大好きなシェアハウスを体から大切に抜き取り、僕は旅に出た。同時に、会社も辞めた。再建築開始。

家の中を照らす、ぼんやりとした光に隠れる不安を見つめるため。
ゆらゆらと。

僕は、日本語しか話せなかった。いや、幼少期本が嫌いだった僕は、時々言葉使い、文法もおかしい。僕らのシェアハウスには、よく外人が来た。住んでいる9人の内、7人が世界一周を経験していて、6人は英語を流暢に話せる、海外が好きな奴らと住んでいた。皆の海外の友達が来る際、僕は簡単な挨拶をした後には、いつもそわそわしていた。外人が家にいる時、僕は落ち着かなかった。自宅なのに。身振り手振りでなんとかなる。そう言う人もいる。何かは通じる。ただ、多くの何かは通じない。ただ、僕は、彼らと話せない事が悲しかったし、悔しかった。何を考え、何を思っているのか。会話したい。そんな事をよく感じる日々が積み重なった。日本にいるのだから、日本語だけ話せれば十分。確かにそうかもしれない。英語を話せるとどうなるのか分からなかった。

 そして、2013年10月、11月に、最近日本で流行しているフィリピン留学に行った。フィリピンの学校生活は、もの凄い規則正しく、朝の5時から起床&点呼から始まり、10時に就寝。平日は外出禁止、酒禁止という受験生のような生活だった。非常に充実していて、話せる英語を勉強するにはかなり良い環境だったように思う。現在は旅をしながら、少しは外人の人と会話は出来るようにはなった。家の中でそわそわする事は無くなった。それどころか、他の人の家にもお邪魔出来る。英語を話す事に2ヶ月を費やした事に、全くの後悔は無い。

授業の中でプレゼンの授業があり、「君のモットーは何か」「尊敬する人は誰か」「好きな言葉は」等という事を発表する場があり、過去を振り返る良い機会にもなった。大学1年生の春休み、学生生活をこれからどうしようかと悩んでいた際に、とあるイベントにいった。東大、経産省というエリートコースから一度道を外し、経営者になった方のスピーチだった。ある、大手書店の経営者だった。

「僕らはなぜ生き、なんのために生きるのか。これを考えなくてはいけない」

なんと表現するのが適切なのか分からないが、悶々としている僕に、激烈な稲妻が落ちた日になった。静かな砂漠に、南米の滝壺から運ばれたような豪雨が降り注がれ、心境はテレビの砂嵐のような状態。今まで、そんな事等考えた事が無かったのだ。

この言葉をメモ帳に大きく、何度も書いた事を覚えている。そして、その途方も無い大きな問いに対して、どこからどのように考えればいいのかと悩み、大きな絵画をびりびりに破いて、くしゃくしゃに丸めたいような気分になった。また、同時期に見た、ジョブズがスタンフォード大のスピーチの中で、「follow your heart」という事を言っていた。両者をふまえると、頭で考え、心に従う。これが両輪だと。成る程。つまり。つまり、どうすればいいの?

 正直に生きるという事は言葉でいうのは簡単だがなかなか難しく、自分の心ってどこやねんって、突っ込みを入れながらものすごく悩んだ。当時に、自分に悲しみを感じた事も覚えている。自分という一番身近な存在でありながら、自分を知らない。知らないというより、分からない。そして、自分探し等というよく分からない事を始める。自分の家の中で、自分探し。「ただいま!僕、どこ?」って。とある本で、君はそこにいるのに、何を探しているか?という文句があった。自分が何を考え、何を求めているのか分からない。なんだか、自分の尻尾を追いかけてくるくると廻る犬のような気分。多分、単純に、それまでは、自分に、自分の家作りに興味が無かったんだと思う。どんな場所でどんな風に他人を迎え入れたいのか。愛の反対は無関心。という有名な言葉があるように。受験勉強は必死にやったような気がする。ただ、それ以外は殆ど知らぬそこらに転がる田舎の国から出て来た大学生だった。特に、何かに縛りつけられていたような感覚も無かったし、僕を縛り付けていたものが何かは知らぬが、これを人は視野と呼ぶのだろうか。そして、その時に、それまでの自分を振り返り、僕の家の建築は土台すらない事を受け入れた。何も描いてすらないんだと。まず、この事実を受け入れる。苦い薬だ。だから、これから、自分で絵を書こうと。とりあえず、その視野とやらを広げるために、色々と手を出してみた。理系なのに、商学部への編入試験受けたり、公認会計士の学校に通ったり。他の人から見たら、気が触れているように見えたかもしれないが、当の本人は大真面目だった。ただ、何かを掴みたかった。何かを。必死に。

この頃からか、少しずつ自分に従う事を覚えたような気がする。色々な事に手を出す事と自分に従う事の関係がどの程度あるか分からないが、相対的に自分の興奮度を知る事ができる。いくつかの団体にコミットした。砂漠の民が色んな遊牧民の家で過ごしたようなものだろうか。その時の、感情が動いた事って記憶に残っているし、逆は味気ない小説のようにただ時が流れていくようなものだった。なぜ、心が動いたのかって言葉で説明が出来ない事も多々あるけれど、真摯に何かと向き合った際、何かによって、ぐいっと自分の中のモノが出されるあの感覚。その流れを追っていく。川上には何があるのだろうと。感情の揺らめき、もの凄く大切な事だと思っている。あるビジネルスクールの講義の議事録を書いている際に、講師の「この数ヶ月で感動した事は何かという問いに答えられなかったら、何かを変えなくてはいけない」という言葉を良く覚えている。そして、その場にいた一流企業のミドル層の誰もが答えられなかった事も。小さな事でいいから、自分に従う事に慣れる事。徐々に感情の起伏を感じるようになる。生きている感覚がする。鼓動が聞こえる。逆に、感情を殺す事を覚えると、忘れてしまうんだって、僕は思う。ただ、この鼓動は1日2日で、聞こえるものではないようだ。しばらくの時を必要とするから、見極めが難しい訳である。
また、社会人になってからは、シェアハウスのお陰で、自分の家の興味と他人の家の興味を探す程に少しは余裕が出て来たのかと感じる。

今、海外で放浪をしているのだが、周りの環境が日本にいる時と大きく変わったように感じない。勿論、言語も違うし、食事も違う。ただ、毎日、朝は来るし、トイレにも行く。形式が違うだけで、どこか同じように感じる。果物は木から落ちて地面は汚れていたし、夜空に星も見える。砂漠でも東京でも同じ事だ。長期で旅行に来ている人で、飽きて来たという人を多々見る。毎日、遺跡を見て自然を見るという行動が何の刺激も感じなくなってしまったと彼らは言う。日本を出る前はこの、非日常の世界を求め来て、日常の世界から足を踏み入れる訳である。ただ、しばらくすると、その非日常の世界も日常という強烈な力を持った世界へと取り込まれしまう訳で、また「新しい」日常が始まる。非日常は、扉を開ける瞬間に入り込む、光のように一瞬だけ見える表情なのかもしれない。何かを変える際の、うねりのようである。勿論、扉の先には新しい日常が待っている。探している何かは、うねりと言う非日常にあるのでは無く、うねりの先の日常にあるのだと思う。旅をしながら、シェアハウスの生活を思い出す。歩き続けるラクダ。時々、井戸に潜る。

おわり。


理由を問い続ける。800キロのスペイン巡礼日記とend of the world

バレンシアオレンジ色の朝日が、濃紺の空の海に現れる。
曖昧に溶け合い出した境界を眺め、昨日の終わりを知る。
どれ程凍った地面を歩き、白い月を朝の空に見ただろうか。
彼らは知っているのだろうか。僕らがこの道を歩く理由を。

この巡礼は2013年12月1日に始まり、2014年1月9日に終わる。

【巡礼編】
サンジャンピエデポート。
冬。風は冷たく、吐く息は白い。

ここは、フランス西の端。大きな荷物に白いホタテの貝殻を括り、杖を持った人をちらほらと見る事が出来る。彼らに、どこに行くのかと問えば、スペイン国境付近のピレネー山脈を超え、スペイン西の地「サンティアゴデコンポステーラ」を目指すと答える。距離およそ800キロ。1ヶ月程の旅路となる。サンティアゴコンポステーラは、エルサレム、ローマと並んでキリスト教の3大聖地。そう、これは、聖地への巡礼なのである。その道の名は、【El Camino de Santiago】と呼ばれる。※Caminoは、スペイン語で道という意味。

ヨーロッパの各地から、サンティアゴを目指して歩く訳である。フランスから始まる道。スペインからの道。ポルトガルからの道と様々あり、始める場所は各自の自由。始める時期も、各自の自由。中世から始まったと言われるこのサンティアゴへの巡礼を、現在も年間約20万人程が行っている。フランスの西端の、サンジャンピエデポートはCamino Francesと言われるフランスの道の始まりの場所なのである。

街はポストカードに収まるような綺麗な家々が並び、道は石畳できっちりと舗装されている。街の上の草地には、羊が歩いている姿を見る事もできる。穏やかな景色と静かな興奮に包まれた街。「見送りと始まりが似合う街」という言葉が、とてもに似合う。

大多数は、夏から秋に行う。夏の時期は道が綺麗で人気なのだそうだ。僕が行った12月〜1月の冬の季節は、1年の中でも最も極端に巡礼を行う人が少ない。夏に比べて、数十分の1程の割合である。雪のため封鎖されている道もあり、巡礼宿も多く閉まっている。また、この時期、サンジャンへのアクセスも悪い。

スペインのバルセロナに到着した僕は、順当に行けば1回の乗り換えで到着可能の道程を、4本のバス、ヒッチハイクした1台の車を経て、サンジャンにたどり着いた。Camino Francesの途中の街から開始をする事を何度も思ったが、始点へと必死に拘った。始まりと終わりとをきっちりと通りたかった。ただ、わざわざこの過酷な時期を選んだ訳では無く、単に知らなかっただけである。僕は、なんとなく、何も調べずにふらっと来てしまった。ただ、この道の始まりのサンジャンの行き方だけを必死に調べて。

【end of the world】
今思い返しても、なぜ巡礼を行ったのか?という明確な理由を持ち合わせていない。なんとなく、直感で。ちょっとした冒険をしてみたかったという言葉が正しいような気がする。初日から、大変な事が沢山起こるのだが、勿論そんな事が起こるなんて予想もしていなかった。ただ、こんな不測な事が起こるから、旅は楽しいのだと思う。

【巡礼編】
まず、巡礼は、登録を行なう事から始まる。夕方にサンジャンに着いたのだが、それを何処で行うのか分からない。日曜日だったのだが、街中に人も歩いていない。ふと、僕の目の前に大きな荷物を背負った2人組が通り過ぎていった。こっそりと後を追う。しばらく細い道を何度か曲がり、巡礼オフィスを発見した。先ほどの2人は、先に巡礼の説明を受けていた。名簿のようなものがある。多分、これが登録者の情報なのだろう。今日の登録人数を見ると僕を合わせて4人。今説明を受けている、イギリスとフランス人と、スペイン人と僕。同期は4人みたいだ。彼らの説明が終わり、僕の登録が始まる。

説明は、簡単なものだった。

巡礼者は【ブリグリノ】と呼ばれる。
巡礼者は、巡礼宿【アルベルゲ】に泊まれる。
巡礼者は、証明書【クレデンシャル】を常に持つ事。
冬のこの時期、初日のルートで山の道は必ず避ける事。

他にも何か大切な事を言われた気がしたが、案内のおばちゃんがフランス語と英語を混ぜて話して来るので、なんだかよく分からなかった。僕は、名簿に名前を書き込み、証明書【クレデンシャル】と初日の地図を貰った。

「2日目以降の地図は貰えないの?」
「ここで、あげれるのは、初日のものだけ。」

まあ、しょうがない。不安はあるものの、いよいよ、巡礼が始まる。今日は、ここサンジャンの巡礼宿に泊まる。巡礼のオフィスから、暫く歩きそれらしき場所を見つける。家の外に、黄色い貝殻のマークを見つける事ができる。この巡礼では、この貝殻が全ての目印になるようだ。宿の重たいドアを開けると、老婆が椅子に静かに座っている。家の中は薄暗い。彼女は、ゆっくりと立ち上がり、僕に何かを言った。70過ぎくらいなのだろう。彼女は、にこやかに僕にはにかみ、ベットルームを案内してくれた。40脚程のベットが並んでいた。先ほどのイギリス人とフランス人と挨拶をし、僕は自分のベットを選んだ。2段ベットの下段。明日から始まる、静かな期待とそれを染める不安を空に見ながら、夕食を探しに街に出た。日曜日。多くのお店が閉まっていた。一つ、街のはずれに光が差す場所を見つけ、そこでビールとピーナッツ、サンドウィッチを頼み夕食とした。宿に戻り、この宿の日記帳のような情報ノートを見つけた。各国の人が各々の言葉で各々の気持ちを書き綴っている。1年間程遡って、日本人の書き込みを3人程見つけた。みなの決意表明を見ながら、僕も書き込む。800キロメートルを歩くというのは、未知の体験で正直、不安で一杯だった。どれだけの人が達成するのだろう。60歳以上の方々もかなり参加されているようだ。必要なのは体力だけでなく、むしろ精神力なのだろうか。そして、そのノートの途中にこう書かれてあった。
”A journey of a thousand miles begins with a single step”
日本のことわざで言えば、「千里の道も一歩から」

【end of the world】
今でも、この日、この街の事をはっきりと思い出す事が出来る。これから、何が起こり、何を考えながら、歩くのか。全てが僕の知らない世界で、どちらかというと緊張に似た感情だったように思う。ここから、始まりの場所サンジャンを見る事は出来ないが、思い出す事は簡単に出来る。どんなに小さなa single stepでもいいから、動かないと何も景色も世界も変わらない事知っている。一枚の写真を見ていても、鳥は鳴かないし、太陽も昇らない。

【巡礼編】
辺りが明るくなる前。と言っても7時頃なのだが。ゴソゴソと部屋の中が動き出す。暫くして、4人でパンとミルクを頂き、朝食を終えた。僕も、荷物をパックし終わり、背に負った。老婆に挨拶をし、重たい扉を開け、一歩を踏み出した。まだ、朝日は見えなく、外は寒い。街の中を暫く歩き、田舎の道が開ける。動物の匂いを嗅ぎながら、進む。牛、羊、鶏、犬。僕ら巡礼者は、貝殻のマークと黄色い矢印に従いながら歩く。交差点、ガードレール、道路、木々に様々な場所でその大切なしるしを確認する。途中、巡礼のオフィスで言われた、山の道への分かれ道を発見する。

山の道の方には、大きく×印が書かれている。行く事無かれ。当然、逆の方向へと進む。途中のお店で、コーラを買い、進む。一人で歩いているのだが、不思議と寂しさは、無い。歌を歌ったり、一人で漫才をしたり、動物と会話しながら、歩く。初日は、どうやらずっと上り道のようである。歩き出してどれ程の時間が経っただろうか。途中、上り坂がきつく、かばんを下ろして休憩をする。持ってきたチョコレートを食ながら、空を眺める。何処までも広がる快晴。どうやら、服を着込み過ぎたらしく、かなり汗をかいてしまった。ダウンジャケットをバックにしまい、歩き出す。しばらくして、大きな道路へと出る。時々足のストレッチをしながら、さらに進む。

山道へと道は変わる。どこかお店に入ってサンドウィッチ等と頼みたいが、山道は続く。そして、雪道になる。トレッキング用の靴をはいているものの、勿論雪の道は歩きにくい。登れど、登れど、道は終わらない。持っている杖に体重を預け雪道の途中で休憩。そして、また歩きだす。徐々に見えだす疲労の色。次第に、視野が狭くなり、少し先の道のあたりしか見えなくなってきた。

重たい荷物に重い足。初日からこんなに辛いとは想定外。中高の部活を思い出しながら、歯を食いしばって歩く。苦しみが無くては、やりがいが無いだろう。なんて、思いながら。だが、次第にそんな事を考える余裕すら無くなってくる。執拗に続く、雪。周りの木々は高く生え、空からの光を遮断する。立ち止まる回数が増え、間隔が徐々に狭くなって来た。この山道に入って、どれだけの時間が経過したのは分からない。左の足が痙攣を始める。止まっても震えが止まらない。

そして、とうとう僕はこの雪道の途中で止まってしまった。息を切らし、杖を突き、空を見上げる。あとどれ程歩けばいいのだろう、と。終わりが分からない。ふと不安がよぎる。もしかしたら、道を間違ったのではないか。確かに、貝殻と黄色い矢印を見ていない。一度不安がよぎると、もう止まらない。青い大きなカバンを雪に投げ捨て、その上に座る。持ってきた最後のチョコレートを食べながら、考えた。この道を進むべきか。戻るべきか。そして、カバンをここに置いていくべきか。或は、少しだけ持っていこうか。考えながら、僕は目をつぶった。もしかしたら眠っていたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

ふと、声がした。目を開けると、目の前には、サンジャンの宿で会った、イギリス人とフランス人がいた。心配そうに僕を見つめ、何か食べ物や飲み物はいるかと聞いてくれた。

「もう2,3キロするとこの上り道は終わり、下りに入る。そうしたら、次の街は直ぐ見える。頑張ろう。」

この言葉にどれだけ救われた事か。彼らに手を振りながら、僕も再出発をした。のろのろと歩き、1時間程歩いて山の頂上を迎え、坂を下った。悲鳴をあげる体と一緒にゆっくりと進んだ。そして、先に街を見た。今日の終わりを見た。坂の上からは、街の全貌を望めたが、人の気配は感じない。到着すると、街は驚く程ひっそりとしていて、周りの雪が全ての音を食らっているのではないかと思った程だった。

1軒のカフェバーを発見し入る。そして、先ほどの夫妻と再会した。イギリスの男性の名前はジョン。彼は、到着した僕に真っ先におめでとうと祝ってくれ、そして1杯のビールを奢ってくれた。喉から胃に落ちるビールを感じる。冷えきった体を、暖炉の前に預け、考える事を失った生き物のように僕は揺れる炎を眺めた。そして、安堵の小さな炎が少しずつ僕を暖めた。

しばらくして、巡礼宿で手続きを行い、ベットで横になる。沼地が全て泥で出来上がっているように、僕の体も全て疲労で出来上がっているのではないかと思う程だったが、頭が異常に冴え、寝れない。7時頃。ジョン達が教会に行くというので、連いて行った。ミサである。教会を普段、観光として中に入り、綺麗だななんて事以外思った事がないのだが、始めて司祭と祈りを捧げる人を見た。白い衣装をまとった司祭は3人。どこか遠くを眺め、お辞儀をし、壇へ上がった。そして、祈りが始まった。スペイン語で祈られるそれは、どこか天から降りてきた言葉のように思えた。勿論意味等一つも分からない。

途中、「サンタマリア」という言葉だけ聞き取れる。そして、みなは十字を切る。膝をつきながら、祈る人。今にも泣き出しそうな人。無表情に正面を見る人。祈りはそして、歌へと変わった。真ん中の司祭は、中央にある分厚い聖書を開き、読み始めた。そして、僕は消えた。この空間は、僕と僕以外のもので出来上がっていた。教会でミサを行っている空間に、僕がふといるのである。ふと。キリスト教徒でも無く、宗教に関してよく知らないのだが、不思議な時間だった。

ミサが終わり、夕食を僕ら4人で食べた。

「不思議よね。こうして、昨日まで全く知らなかった人達と食卓を囲んで食事をするなんて。まるで家族みたいね」

スープが暖かくてとても美味しい。
ジョン夫妻は、仕事の休暇で来ているらしく、3日間の巡礼。奥さんが過去に2度巡礼を行っていて、今回は夫を誘い来ているらしい。夕食を終えると睡魔がやってきた。長い初日が終わった。

【end of the world】
初日、とにかく本当に辛かった。心が折れそうだった。この巡礼というものを、多くの人がやっている事を疑った。本当にみんなこの道歩いたのだろうか?僕が道を間違ったのでは?靴が悪い?バックパックのせい?靴は、恵比寿のシェアハウスメンバーの長谷部君と一緒に選んだ靴。

「みっちーさん、この靴なら間違いないです」

途中、君の顔を思い出して、何度も疑ったよ。ただ、不思議な表情を持つ君を思い出して、笑いながら歩いたよ。でも、これからもこんなに辛い日が続くのならば、今すぐにでも止めてしまいたい。

「スペイン巡礼に参加して、途中でリタイアしました。やっぱり大変でした」

なんて、乾いた笑いをしている自分の未来になり得る、過去を想像すると、やはり僕の中にいるどこからかのこの囁きを消さなくては。行く前に色々と教えてくれた福田君、おすすめをしてくれた砂漠ランナーのまもり君にもなんと言い訳が出来ようか。世の中にもしもという言葉があるとすると、もしも、あの雪道の途中で彼らに会わなかったら、僕は今何をしているのだろうか。分からない仮定を考えてもやはりその未来は、分からないのだけれども。この時は、僕の持っている何かに感謝した。

そして、砂漠ランナーのまもり君が僕に教えてくれた。

「砂漠マラソンが教えてくれた事があるねん。絶景って、ただその場所に行っても絶景やないねん。途中での、苦しみや痛みが、そのただ綺麗な景色を絶景にするねん。あとな、絶景って景色だけやないねん。」

【巡礼編】
目覚めた体をゆっくりと起こす。下半身が痛い。両足の裏が特に痛く、立っているだけでも痛い。筋肉痛の痛みとは、また違う。ベットから体を起こし、トイレまで歩くのもままならない。麻酔剤があるのならば、打ちたい。一緒にいたスペイン人から、痛み止めのクリームを貰い、入念にマッサージをする。オフィスで貰った、巡礼宿のリストを確認する。次の街は21キロのZUBIRI。その次は、27キロのLARRASONA。みなで支度をしながら、「LARRASONAでまた会おう」なんて言われ、「OK」なんて返事をしてしまったが、正直ZUBIRIに泊まりたい。と思いながら出発をする。

痛みを堪えながらの徒歩。快晴の空の清々しさに嫌気を感じる。君は、天気が良くても悪くても、どうだっていいのだろう。のんきに快晴でいられる君が羨ましい。なんて、空につぶやく。とにかく、足が痛い。山道の下りが続く。ああ、なんて綺麗な景色なのだろうと本来は思うのだろうが、そんな余裕は無い。頭の中の描かれる一枚の絵は、痛みと戦う僕で一杯なのだ。

そこに自然の穏やかさが入り込む余地はない。足は、こんなにも痛くなるのだろうか。ほふく前進をした方がいいのでは無いか。そんな事を考えていると、道が消え、一面に雪が広がっている。笑った。ここ歩くの?ここは、Caminoの道なのだろうか。もう、なんだかどうでも良くなってしまって、その新雪の世界に足を踏み入れ、雪道を踊りながら歩く犬のような気持ちになった。雪道の方が足が痛くない!そして、数百メートル程歩くとCaminoの貝殻マークと矢印を発見する。多分、地面にサインがあったのだろうが、雪で見えていなかったみたいである。

途中、小さな集落を通り、パンとハム、コーラを買い、お昼とした。道ばたにカバンをおろし、休憩。スペインの集落は驚く程、ひっそりとしている。スペインのイメージと言えば、赤。情熱で大地を鳴らす民族を想像していたが、巡礼の道で会う人々は、冬の厳しい雪に耐える雪国の人々のイメージに近い。そして、重たい腰を上げ、さらに進んだ。何度かの休憩を挟み、21キロの地点のZUBIRIに到着する。スタートから一緒の3人には、申し訳ないが、僕は今日、ここで滞在する。連絡する手段もないので、心の中で何度か謝罪をして、巡礼宿を探した。ごめん。

ただ、中々大きい街で、巡礼宿が見つからない。街の外れに、発見した。しかし、この街の巡礼宿は、閉まっていた。「11月でこの街の宿は、閉まったんだ」現在、12月3日。このどうしようもない気持ちのはけ口が無く、僕は街のベンチに座った。何も考えずに空を見た。目の前にある教会の鐘が僕に3時を知らせた。静かに。そこに、ある一人の男が近寄って来た。セルビアから来た、男だった。ひげで、顔の下半分がよく見えない。
「やあ。どうしたんだい?」
「ちょっと疲れて、休憩中」
彼は、この巡礼の道を聖地サンティアゴから逆走して歩いているらしく、今日で1ヶ月程になるらしい。

「君はなぜこの巡礼に参加しているの?」
彼は、僕に問うた。そして、解答に戸惑う。僕が、巡礼をしている理由はなんだ。そして、この800キロもの道のりを歩こうと思う、動機、モチベーションはなんなのだ。暫く考え、
「 まだ、上手に言葉に出来ないのだけれども、一つの挑戦だと思っている。勿論、こんなに長い道を歩く事は始めてだし。今、1年間の旅の最中で、勿論毎日楽しいのだけれど、何かが足りないんだ。何か。そして、今はまだ分からないんだけど、僕は<新しい何か>を探している。それは僕の近くにある気もするし、遠くにあるのかもしれない。その何かを歩きながら、考え探したいと思っている」
「君は?」
「僕は、クリスチャンでも無いんだけど、今は聖書の勉強をしている。ほら、バックにも入ってるし、ipadでも読める。読んだ後、自分で考える。とても面白いんだ。そして、知れば知る程、僕の知らない扉が開いていくのが分かる。そして、それをさらにさらにって追求をしているんだ。鍵はどこだ。扉は何だ。って。この先には、何があるんだって。この巡礼は、スピリチュアルな事を考え、そして気付く事にもの凄いい。」
と興奮気味に語った。彼が純粋にそして、楽しそうに話すのが羨ましかった。彼には分かって僕に分からない事。僕は、この時始めて扉の前に立ったのかもしれない。彼から少し元気を貰って、7キロ程先のLARRASONAに到着した。

【end of the world】
「なぜ行うの?」
この問いこそ、この巡礼の道で一番多く聞かれる質問なのだ。
そして、最も大切な問いである。
名前は?出身は?Why?大体、この3つが問われる。
理由はなぜ必要なのだろう?

世界にもし、僕しかいなかったら、この道を歩く理由を言葉にする必要があるのだろうか。自分の奥底にある何かが囁いたから。なんとなく。でもいいのではないか。ただ、自分以外の誰かは、理由を知りたがる。君は、なぜそれをしたの。この理由というのは、自分以外の誰かに説明するために必要なのではないか。そして、時には、自分を納得させるために必要なのだ。別に言葉として探さなくてもいいのかもしれない。感情なんて、不安定で消えたり現れたりする気分屋だ。それを言葉というかっちりとした、形あるものにするには、エネルギーがいるし、感情の一表面をなぞったものになる時もある。

そして、この理由だが、今この瞬間には分からない事もある。なんで、やっているんだろう。後から振り返って考えるとその理由は分かったりする事もある。でも、いつまで経ってもなぜその行動をしたのか分からない事もあるのだから、不思議なものである。直感。本能。一番、言葉から遠い言葉。

【巡礼編】
2日目、3日目共に、痛みと戦いながら、終わる。何かについて考える余裕も無く。3日目の街は、パンプローナ。ここでは、牛追い祭りという祭りが毎年開催される。街に放つ牛を市民で追い立てるのだ。毎年、けが人がでるとの事。ただ、そんな荒れ狂ったイメージとは違い、町並みはとても綺麗で中心部には、バーがずらっと並ぶ街道がある。どこも活気に溢れ、どこに入るか非常に悩む。入ったお店で、この街にCaminoショップがあると聞いた。すぐに向かい、そこで、湿布クリームとスペイン巡礼の本を入手した。早速、その本を読んでいて、一つ重要な事に気付く。バックの重さだ。

「基本的に体重の10パーセント程にする事
10キロ以上なら、バックの中身を見直して下さい」

僕のバックは28キロだった。足が痛い理由はこのバックの重さにあったんだと思う。とにかく、本が多かった。英単語帳から、スペイン語の文法書。小説。そして、スラムダンク。ただ、日本から選びに選んで持ってきたこれらを捨てる事は非常にためらった。スペインの巡礼だけが、僕の旅の全てでは無いからだ。海パンにはっぴ等は、確実にこの巡礼に必要ないと分かっている。中々捨てられない。この日、僕の他に数名が泊まっていた。疲労を回復させるために、8時頃には就寝をした。

翌日からもゆっくりと歩き、のろのろ進んで行く。前を見ても、後ろを見ても誰もいない。ただ、あるのは道だけである。道も空も羊も僕と会話してくれない。風の音が音楽に聞こえる事も、羊の鳴き声が僕を癒す効果になる事もない。誰か、会話して下さい。少しの孤独を感じながら、バックの重さを感じながら歩いた。

湿布クリームの効果があったからかのか、痛みに慣れてきた頃、頭の中で色々と考えるようになった。それも無意識に。最初は、過去の思い出が突如頭に蘇る。そのシーンを鮮明に思い出す。なぜ、今このタイミングでその出来事を思い出すのか分からない。そして、思い出が頭の中で時を進ませる。過去のその後が始まる訳である。小学校時代から、中学、高校、大学、そして、社会人の生活をピンポイントで思いながら、僕は足を進めた。一人、頭の中で自分登場の映画を見ているのだ。

無意識に何かを頭の中で思い出し、そしてその後を作るという作業。頭の中で過去と未来とが入り乱れ、時系列が乱れる。頭の中にあるのは、現在とそれ以外。その物語は、どんどんと進んでいく。そして、その物語は、誰かによって作られている。

「君は誰?」

僕の声はむなしく、大地の上に声は落ち、そして静かに消えていく。君は僕の問いに答えないが、君がいる事を知っている。そして、再生が始まる。僕はその世界を必死に追うと、しばらくして世界がふと消える。目の前には、ただ草の上を歩く羊がいる。彼らは、僕を見て何かを言っているが、僕には分からない。

「何?」

彼らは、僕の問いには答えない。ただ、草の上を歩き何かを言っているだけなのだ。

夜、一緒に泊まっていた韓国人と一緒に話した。
会話は、名前は?出身は?Why?からやはり始まった。
彼は、トゥバン。韓国には、英語名が存在する。彼らの名前は、他の国の人に取って覚え辛いので、あるようだ。29歳。会社を辞めて、このスペイン巡礼に来た。

「いや、なんだか疲れちゃってさ。僕は、会社でもの凄い働いていたんだ。朝早くから、夜遅くまで。時には、休日だって出社する。日本の会社も似たような感じだって聞いたよ。大学を卒業して、今まで毎日必死に働いた。感情の無い、ロボットのようにね。ただ、ある日突然、自分がなぜ、何のためにこんなに働いているのか分からなくなった。急に。そして、自分が何者であるのか、分からなくなった。Who am I? 俺は、誰なんだって。そこで止まってしまった。そして、この会社でこれ以上働く目的も何もかもが一気に崩れて無くなってしまった」

壊れた後に残るものは、何?

Who am I?

【end of the world】
スペイン巡礼の道では、皆何かを背負って歩いている。
どこか、弱さを抱えながら、それを撫で、見つめる時間。ふとした時に、感情が、記憶が、考えが、体を通り抜ける。その繰り返し。気まぐれに吹く風と同じ。

何かの大義名分を掲げている自分は強い。何かを強く信じている自分は強い。これをやるのは、先輩のためだ。国のためだ。家族のためだ。ただ、時に、そこに自分を失う。自分は、他人なのか。自分の外に自分を作る。このエンジンで歩き続けたラクダは、砂漠の砂塵で目を閉じる。開けると、違う世界が広がっている。

自分らしさ。自分のアイデンティティ。自分の核。

機械が嫌い。だって、みんな同じだから。代替になる自分は嫌だ。個性って、表面を覆う何かだと思ってた。僕の重たいバックパックの中に、小林秀雄の本を何冊か入れていた。その中で、自己と個性についての記述がある。

独創的に書こう、個性的に考えよう、などといくら努力しても、独創的な文学や個性的な思想が出来上るものではない。あらゆる場合に自己に忠実だった人が、結果として独創的な仕事をしたまでである。そういう意味での自己というものは、心理学が説明出来る様なものでもなし、倫理学が教えられる様なものでもあるまい。ましてや自己反省という様な空想的な仕事で達せられる様なものではない。それは、実際の物事にぶつかり、物事の微妙さに驚き、複雑さに困却し、習い覚えた知識の如きは、肝腎要の役には立たぬと痛感し、独力の工夫によって自分の力を試す、そういう経験を重ねて着々と得られるものに他ならない

他人と違う人生を送りたい。自分だけの人生を。自分を確認するために、他人と何か違う事をしなくてはいけない。こんな感情をよく持っていた。

【巡礼編】
そして、翌日からもう一人の韓国人RANが加わった。23歳。ドイツでバイトをした後、この巡礼に来ているようだ。この後、北欧を旅した後、韓国に戻るようだ。
最初に会った時、彼はベンチの上で寝ていた。
「最初の方の道が辛くて、殆ど寝れなかったんだよ」
僕も思い返したくない、絶望だったとも言える初日の道。彼は、オフィスの人が言った、【進んでは行けない】山の道に入ったらしい。その道をこの冬の時期に入り、彼は、山の上でテントを張って寝たらしい。この話を聞いたイタリア人のエミリオが、
「RAN、君は自分の運命に感謝をした方がいい。本当に幸運だったと思う。その道は、ナポレオンの道と呼ばれ、過去に死者も出ている。去年も、韓国人とブラジル人が亡くなった聞いた。本当に驚きだ。」
この初日は、みな不慣れな事もあり、多くの問題が起こるようだ。

翌日、彼と一緒に歩きながら、色々聞いてみた。
「僕は、30歳まで旅をしたい。沢山行きたい国があるし。僕は大学にも行っていないし、今大きな夢が無い。英語で説明するのは、なんて言ったらいいのか分からないんだけど。少しずつ、考えていけたいいと思ってるんだ」
この日、彼と一緒に歩いていた際、大切そうに父親の写真を取り出した。
「彼は、今病気なんだ。そして、父さんはとても不幸な人生だったと思う。」
それ以上、彼の父について聞く事が出来なかったが、彼もまた彼の何かを背負って歩いているようだ。

僕は、しばらくこのメンバーと一緒に歩く事になった。とは言っても、エミリとトゥバンは歩く速度が早いので、2人はペア。僕とRANがペア。大体歩く速度も分かってきた。僕らは時速4キロ程。一日大体25キロ程歩いていたのだが、大体7時間から8時間歩く。途中の休憩も入れると大体9時間程。朝8時頃出て、夕方4時頃の到着である。そして、夜は、エミリオがパスタを作ってくれた。イタリア出身の彼のパスタはやはり美味しい。皆で自分たちのパンやチョコレートをあげたり、貰ったりしながら進んだ。

冬の日照時間は、短い。歩ける時間が短い訳である。朝7時頃。まだ、外は暗く、頭にヘッドライトを付け、暗闇の朝道を進んだ事もあった。また、ある日は、霰が降って来た日もあった。道路は凍り、下り坂は、注意をして歩かないと直ぐに滑る。初日に貰ったリストに「年中無休」と記載がされているのにも関わらず、実際に巡礼宿の前に「水曜日定休」とかかれ、夕方からさらに10キロ先の巡礼宿まで歩いた日は、体力的より精神的に堪えた。

冬の厳しい道を僕らは、進み続けた。歩く時は、黙々と歩き、宿で皆に再会する。こんな日が続いた。ある日、あまり多くを語らないエミリオが僕らに教えてくれた事がある。

彼は、イタリアに巡礼宿を持っているらしく、この1ヶ月閉じてこの巡礼に来ているらしい。
「RAN。この前、君に自分の運命について感謝した方が良いって言ったよね。初日に、君が山の道に入って生きていた事を。俺は、今年大切な友達を無くしたんだ。今でも信じられない。自分の知らない、自分の手の届かない場所で起こる事は、僕らには何もする事が出来ない。でも、それは起こるんだ。どうしようもない。ただ、自分で出来る事は、自分で防げる。自分で自分の人生を捨てる事は、決してしてはいけない。失う事と違って、捨てるのは、いつだって自分がやる事なんだ。」
英語があまり堪能で無い事も関係したが、彼がゆっくり話す言葉は重たかった。何かを失う事以上に辛い事は無い。彼は、手を固く握り、仰いだ。

【end of the world】
エミリオが語った時の状況を良く覚えている。寒いドミトリーで火を囲みながら、皆で話していた。そして、いつも食事の話しかしていなかったのだが、この日、初めて彼について聞いたのだと思う。自分の意思で捨て、失ったものでさえ、後悔する事は多くある。そして、失った後に、その価値を認識する事はある。

もの凄い依存をしている事が、常に自分の側にあると、それが当たり前になってしまい、その大切さを忘れてしまう。この状況がまるで永遠に続くかのような錯覚を覚えて。でも、この世の中に永遠という事はありえないからこそ、永遠という言葉を好み、使いたがる事を知っている。失って初めて気付く事もあるけれど、もう元には戻れない。親への愛を歌う、ある歌手が言っていた。僕が忘れかけている永遠の錯覚は、何だろうか。価値は、まるで氷山の一角のように見えにくいものなのかもしれない。

【巡礼編】
歩き始めて20日頃。クリスマスイブだった。豪雨と強風がスペインを襲う。この日、山の上からのスタートだった、僕らは風で体制を崩されながら、必死に歩いた。今日は、ほとんどが山の下り道。ただ、そこは道ではなかった。道にたまった雨が小さな川のように流れている。その川に足を入れ、靴は勿論、水を含み重たくなる。多くの人のポンチョは風によりまくられ、雨が隙間から容赦なく僕らを襲った。隣にいる人の声も聞こえない。片手でフードを抑え、必死に前を見ながら、歩いた。残り10キロ程の道の途中に、大音量の音楽を流すバーがあった。明らかに馴染まぬ存在だった。しかし、なんだか神々しく思え入った。姉妹で営んでいるバーだった。スペイン語が、よく分からない僕は、彼女らにメニューを任せた。とにかく、暖かいものが食べたかった。野菜炒めのような物を頂いた後、コーラに、デザートを彼女らの好意で貰った。

「今日は大変な日ね。」

窓を強く打つ雨を、一緒に聞き外を眺めた。

しばらくして、一人のスペイン人がお店にやって来た。彼はビールと頼み、姉妹と楽しそうに会話している。そして、飲み終わった頃、僕を見ると、

「巡礼者だろ?僕も街まで行くから、一緒に乗っていかないか」

巡礼は、基本的に徒歩、或は自転車、馬に乗って行われる。勿論、車に乗る事はダメだろう。非常に迷った。巡礼を僕は徒歩で行っているのだ。ただ、彼の車に乗る事で、何か違う事が起こる気がした。今日はイブだ。サンタクロースからのプレゼントとして恩恵に預かろうか。暫く悩み、僕は車に乗り込んだ。

夜、宿では、今日から巡礼を開始するセシールや、他の皆とささやかながら、イブを祝って、ワインを飲みながら、ダンスをしたりした。

翌日も相変わらず、雨だった。昨日会った、セシールを加え、RANと僕と3人で、歩き出す。今日は、平坦な道が続く25キロ程の道のり。セシールの初日の道としては、とてもいい条件だった。進むにつれて、僕らは山道へと入っていった。そして、気付くと僕らは山の頂上にいた。そして、雪が降ってきた。

「ホワイトクリスマス」

皆で、笑いながら空を眺めた。この雪の降り方は、どこの世界も一緒だ。どこからか舞い降りてきて、ゆっくりと地面に落ちる。ただ、この日は途中で休憩をできそうな場所が無かった。昼をまわった頃まで僕らは歩き続けた。疲労が見えてきた頃、偶然一軒の民家の扉が開いた。

「オラ!」

そして、彼は家でコーヒーでも飲んで行かないかと僕らを誘ってくれた。家族で、このクリスマスの時期だけ、この山中の家で過ごしているらしい。英語の先生をしているお二人。僕らは、スープにワインまで頂いた。暖かかった。

「次の街まで、どれくらいですかね?」
「今日は何処に行く予定なんだ?」
「ビアフランカっていう所なんですけど」

そして、この夫妻は戸惑う。

「今日、ビアフランカに行く事は多分出来ないだろう。ここからは、非常に遠いし、山を超えなくては行けない。今日は、天気も悪い。」

なんと、僕らは道を間違い、どこか知らぬ、山中にたどり着いていたのだ。3人で取りあえず笑った。3人で歩いていると、こんな突然の事件の際に、気持ちを分かち合えるから本当にいい。

夫妻からアドバイスを貰い、この山を下った次の街に泊まる事にした。深く感謝し、僕らは山を下った。時刻は4時頃。雨が強く僕らを打つ中、このどこか分からない街で宿を探した。

「この街に宿はある?」
「残念だけど、この街の宿は今の時期は閉まってわ。」

途方に暮れる僕ら。さらに、この次の街にも宿は無いらしい。ただ、僕らが今通ってきた街に宿があったらしい。しばらく彼女は、家族と話した結果、

「いいわ。車に乗って。私が送ってあげる」

僕らは冷えきった体を車に入れた。車の中の暖かさが心地よかった。そして、宿の手前で降ろしてもらい、何度も彼女に感謝した。彼女の車を見送った後、少し歩いて、僕らは宿の扉に手をかけた。宿の扉は開かなかった。そして、僕らは、この街で立ち尽くした。次の街、さらに次の街に宿が無い事を知っている。そして、今日出発した街からここまで4時間以上かかる事を知っている。時刻は午後4時30分。日の入りは午後6時。明るい時間は残り2時間程。この山中で、この雨の中過ごす事は出来ない。一気にクリスマスにこれ以上無い暗雲が立ち篭めた。とにかく、近場の街についての情報を集める事が必要だった。近くの街まで歩くのか。あるいは、もし可能ならば、誰かの家の玄関でいいから、泊めてもらいたい。

近くの民家のドアホンを押す。軍服を来た、かっぷくの良い親父が出て来た。彼は、英語を話せなかったが僕らはジェスチャーで色々と伝えた。

「25キロ先に、大きな街がある。そこなら、宿があるはずだ」

25キロ。徒歩で6時間程の道のり。今日歩くのは、かなり厳しい。彼は、車のエンジンを付け、扉を開けた。彼は片道30分程の道のりをこのクリスマスの夕方にも関わらず、見ず知らずの僕らを送ってくれたのだ。街についてからも、街中の人に聞きながら、僕らが泊まれる安い宿を手配してくれた。
ありがとう。本当にありがとう。

「グラシアス」

この言葉で、彼に感謝の気持ちが通じただろうか。
僕らは、こうして、知らぬ街の知らぬホステルでクリスマスを過ごした。

翌日、僕らは巡礼の正しい道に戻らなくては行けなかった。この街から、どのように行くのか分からない。どうやら、バスも出ていないようだった。3人で相談して、本来なら今日ついているはずだった、「ビアフランカ」までヒッチハイクを試みる事にした。

もはや、巡礼でヒッチハイクというよく分からない状況が楽しくなってきた。朝からカフェに入って、白い紙に、ビアフランカの文字を書き準備をした。僕らの横に愛想の良い、警官がコーヒーを飲んでいた。彼らに頼んでみた。昨日のまでの雨が止み、いい天気だった。朝の10時頃。僕らはスペインのパトカーの中にいた。彼は、快く良いよなんて言ってくれたのだ。ここ数日は変わった事がよく起きる。勿論ビアフランカからは、しっかりとまた巡礼の道へと戻った。
ここ数日は、自分が想像していない事が起こる。イブの日のあのバーがそのトリガーを引いたように思えてならない。

RANがアルケミストの事について僕に教えてくれた。
「著者もこの巡礼を歩いていて、巡礼の本を出しているんだよ。そして、アルケミストもこの巡礼の道にかなり影響されているらしい」

主人公の名前は、Santiago。そう。この巡礼の皆が向かう聖地の名前だ。主人公が、夢見た事を追いかけ、「前兆」と「大いなる魂」に従いながら話は進む。まるで、突然幸福の世界から来た鳥が自分の元へ舞い込み、それを追いかけていったように感じるが、その鳥も結局は自分の世界に生きているのだ。Follow your heart. ただ、自分に従って進む事を一度失うと、その声を取り戻す事に時間がかかる事を知っている。他の世界から、僕の中に語りかけてくる事はない。世界は結局、自分の世界であり、他人の世界は他人の世界なのだ。干渉する事も、混ざる事も無い。同じ物を、同じ経験をしても、出来上がる世界が違う事を知っている。声とは何なのだろうか。どこかに生息する生き物なのだろうか。君は、彼らと一緒なのか。

【巡礼とend of the world】
残り5日間。ガリシア地区と呼ばれるスペイン西部は、毎日雨だった。毎日、道路に表示されている、目的地までの距離の標識「サンティアゴ 100」のような看板を見て喜んだ。同時に、終わる事が確実に分かって来て、悲しさがこみ上げてくる。この800キロの巡礼が終わる。勿論、終わる事を目的に歩いて来たのだけれども、終わる事がなんだか悲しかった。このゴールまでの過程が楽しかった。目的地点に行く事が、僕らの目的ではなく、目的地点までを楽しむ。ただ、これも目的地点があるから楽しめる訳なのだが。数字が減っていくのを見るのは、不思議な感情に包まれていた。何かに向かって歩けば、終わりがあるんだ。

巡礼を開始してから、35日後に僕は聖地サンティアゴコンポステーラに着いた。大きな街で、街の入り口から大聖堂までも4キロ程の道のりだった。そして、大聖堂は静かに僕らを迎えてくれた。一人の巡礼者として。ただその終わりは、あまりにも静かで、暗闇の中で文字を綴る、詩人のような気分だった。マラソンランナーがゴールテープを切った時のような高揚感に包まれ、天まで登れるような興奮があるものだと思っていたが、正直全くなかった。終わった、という感覚も無く、ただ僕は、サンティアゴコンポステーラに着いた一人の人だった。日本のツアーで来ている、おばさま方に偶然囲まれ、手を握って下さいとか、写真を取って下さいなんて言われ、少し有名人のような気分を味わったものの、もの凄い空っぽな気持ちになってしまった。

一ヶ月間の気持ちを整理するには、この一瞬では多分纏まらないのだろうとなんとなく思った。

そんなふわふわした気持ちの状態で、翌日の昼にこの大聖堂のミサに参加した。初日に聞いて以来のミサだった。大きな教会で歌われるこの歌は、僕の知っている歌は違う歌。

そして、今、僕はそこから更に西へ100km程のFinisterreという所にいる。街の意味は、end of the world. 海が広がるスペインの西の果て。空っぽになってしまった僕は、なんとなくふらふらとここまで歩いて来た。ここから、サンティアゴもサンジャンも見る事はできない。この海を渡ったら、どこに着くのだろうか。
途中で会ったみんなは、今どこで何をしているのだろう。海は、揺れ続ける。

Finisterreにたどり着く2日前。一ヶ月以上一緒だったRANと別れた。この日も、雨の強い日だった。毎日、宿で共に起き、ベンチに座りながら昼を食べ、翌日の天気を祈った。
最後の交差点に差し掛かって、お互いの標識を見た。
その手前で立ち止まる。時が止まる。

「この巡礼を決して忘れる事はない。ありがとう」

別れる際に、この簡単な言葉しか話せなかった。顔に雨が滴り降り、涙と混ざる。僕は声を必死に出した。感情というのは、やっかいなものだ。また、これも言葉から遠い世界に生きるものみたいだ。別れてからの孤独が嫌だった。

僕らは、歩く事に没頭していた。生まれながらにして、誰から習った訳でもない。歩く世界に入っていた。その世界で、僕は彼らと会った。もの凄くおかしな話かもしれないが、歩きだしてから、歩く理由を探した。何かを探した。他の人が何かを背負いながら歩いているのに、自分だけなにも背負っていないお気楽な人間である事が恥ずかしかった。かっこいい理由を探した。でも、その言葉は日が経つに連れて僕の前から直ぐに消えていった。

ただ、1ヶ月後、僕の中に残ったのは、1ヶ月必死に歩いたという事だけだった。いや、必死という単語も少し違うかもしれない。ただ、歩く事を求めた。歩いただけで、自分の過去を見た。未来を見た。自然を、月を、太陽を、友を。

出会った人は、みんな本当に優しかった。
助け合った。
僕が、何を助けたのかは分からないが。

夕方。岬にいる僕は、陽が沈んでいくのが見える。
濃い紅色の夕日が、空から海へと静かに潜り込む。
光が海と空の境目を別け、境界が徐々に消えゆく。

彼らは知っている。

スペインの西には限りない海が続いていて、太陽は毎日昇る事を。
フランスから続く道は繋っていて、この海の先にも道がある事を。
ただ、その道を彼らは知らない。

海のどこかから、歌声を聴いた。

君と、彼らは同じなのだ。


最終日に涙を流した、愛すべきフィリピン留学の日記

フィリピンを出る最後に涙を流すなんて、思わなかった。台風も、地震も、あの狭い個室の授業も全て忘れない。帰りのバックパックが重くなったのは、多分気のせいでは無いと思うんだ。多分。

2013年9月末、世界一周中に、東南アジアをいくつか周り終え、フィリピンのセブ島へと向かった。とても暑い夏だった。

目的は、最近流行しているフィリピン留学というやつである。アメリカ、イギリスの留学に比べると、授業の数、特にマンツーマンクラスの授業数が多く、初心者には丁度いいと言われている。また、寮の中で規則正しい生活を送るので、継続的に勉強に取り組める。そして、値段もかなりの割安。という話を聞いて、僕も勉強してみる事にしたのだ。

大学生の頃は不真面目な学生だったので、最後にしっかりと勉強をしたのは高校生の頃だったと思う。毎朝、高校の図書館に来て自習室に閉じこもっていた事を記憶を思い出し、僕はフィリピンへと入国した。

セブの空港は思ったより小さいのだが、他の学校の迎えが沢山きており、僕も自分の学校の迎えの看板をやっと見つける。車に乗り込むと学校のマネージャーが、少し日本語を話せるみたいで、「お元気ですか。体調は、いかがですか」なんて、気さくに話しかけてくれる。それに対して、僕はつたない英語で返答する。

セブ島は、フィリピンでマニラに継ぐ2番目の都市のようで、車も多く、ビルを所々に見る事ができる。ただ、大量の排気ガス。町中にゴミがあちこちに見える。キレイなリゾート地なんてイメージをしていたので、少しがっかりしながらも、車は進んでいく。30分程して、車が細い路地に入り、大きな門の前で止まった。中から警備員が大きな門を静かに開けてくれる。なんだか大げさな門だななんて思いながら門をくぐった。

最初に目に飛び込んできたのは、宿泊する寮と小さなプール。プールの周りには、リゾート地を想定したような木々が植えられているのだが、なんだか少し不自然な印象を受けた。奥にあるオフィスまで歩き、挨拶と簡単な手続きを行う。途中、他の生徒が僕を物珍しそうな目でちらちらと見てくる。大きなバックパックを背負い、ヒゲをはやし、海パンをはいている学生なんて、多分僕だけだったんだと思う。世界一周の途中なので、少し汚らしい格好だったのかもしれない。

少し学校の紹介を簡単にしたいと思う。僕が選んだこの学校は、フィリピンの中でも有数のスパルタ校と言われている。朝5時代に起床、点呼、朝の単語テスト、AM8時からPM8時まで授業。最後にセンテンスのテストで終了。平日は外出禁止、アルコールの持ち込みは不可。通称、刑務所と呼ばれ、休日の外出を、プリズンブレイクと呼ばれている。他にも厳しい規則が沢山あるのだが、勉強する環境としては最高と思い、僕は申し込んだのだ。世界一周中なのに、なんて意識が高いのか。最初にオフィスに入ると、Biteマネージャーが竹刀を持って歩いていたので、笑った。そんな学校だ。

諸々の手続きが終わってから、僕は自分の部屋へと行った。相部屋と言われていたので、ルームメイトがどんな人なのだろうとドキドキして、部屋に入る。

しかし、まだ到着していないようだ。しんとした部屋に入り、落ち着かない僕は部屋の中をぐるぐるする。そして、窓の外を眺めるが、どうもそわそわする。一旦落ち着こうと思い、大好きなジョブズのスピーチを聞いて、ベットでほっとして座っていると、足に何かがくっついた事を感じる。急に感じる、寒気。そして、悪い予感。

日本でも幾度となく見た、細かな動きで、僕の足を移動する黒い悪魔。Cockroach。そう、ゴキブリ。見ずしても一瞬で分かった。今期最大の悲鳴を張り上げ、窓を全てあけ、1時間程の格闘が始まった。日本のそれよりも良く飛ぶからまた怖い。お隣の部屋の住民とも目が合ったが、挨拶などしている余裕もなく、追いかけた。そして、追いかられた。そんなフィリピンの洗礼を受け、汗をかきながら午後のオリエンテーションクラスが始まった。

授業は、マンツーマンクラスだった。1畳程の狭い所に、椅子が2個置かれている。扉を慎重に開けると、先生が一人座っている。こんな近い所で行なわれる授業にためらいながら、僕は先生の隣へ失礼しますなんて言いながら座った。

「ようこそ、EVへ。なんだか、汗をかいているようだけど、どうしたの?何かあったの?」
「ゴキブリと格闘してたんだ」

と答えたかったが、ゴキブリという単語が分からず早速困る。

しばらく考えて、

「黒い悪魔と戦っていたんだ」

と言うと、先生は不思議そうな顔で僕を見つめてきた。

「黒い悪魔って何?日本の何か神話かしら」

ゴキブリのものまねをして通じるのに10分程。フィリピンに来て最初に覚えた単語は、Cockroach。旅中、少しは英会話をしていたので、話せるかと思ったが、自分の実力を知る。冷や汗をかきながら、授業は進んでいく。そして、次第に先生の言っている事について行けなくなる。

「これ、もの凄く初歩的な事だと思うんだけどなあ」

なんて、笑われながら追い打ちをかけられる始末。座っている距離はこんなにも近いのに、日本海溝を這い上がるような溝がここにはある。苦い薬を飲んだ後のような気分で、あっという間に75分の一コマが過ぎる。到着日は、2コマだけだったが、自分が話せないという事を十分に自覚した。いいたい事が言えないもどかしさを感じ、部屋に戻る。改めて、英語学習の意欲が燃えた。

フィリピン留学に僕が来た、理由

このままフィリピンの話を続ける前に、英語を勉強しようと思った出来事について書きたいと思う。
1年間の世界一周を2013年にスタートした。最初の国は、アメリカ。

どうしても行きたかった、バーニングマンという理想郷から旅をスタートした。

東側に飛んだのだから、そのまま南米を下ればいいじゃないと思うのだが、僕はフィリピンまでそこから折り返した。それくらい、英語の必要性を感じたのだ。

この記事ではバーニングマンについて長くは触れないのだが、もの凄い楽しみにしていたお祭りで、わざわざ世界一周の初日に東京から太平洋を渡って行った位、期待をしていた。ただ、英語が分からなくて、完全に楽しむ事が出来なかった。勿論、英語だけが全ての理由では無いのだろうが、英語がかなりの大きな割合を占めていた。

バーニングマンを誘ってくれた友人(めちゃくちゃ可愛い)が英語を話せたので、最後まで頼ってしまった。その場で出会う新しいコミュニティに入っても、最初の自己紹介すらままならない。そして、みんなが笑っている事がなんなのか分からないから愛想笑いをする。こんな自由な空間で、圧倒的に不自由な僕の言語。カラカラに乾いている砂漠の空間で、涙が出た。

お祭りを終えた後、僕の中に残された感情は、悲しさに溢れていた。勿論、英語が出来なくても、旅は出来るのだけれども、英語が話せた方が絶対に楽しい。言葉でこうして書くことはなんて簡単なのだろうと思いながら、この文章を書いてはいるのだが、このバーニングマンを通じて僕は確信した。英語をちゃんと勉強したいって。だから、僕はアメリカの西海岸から、東南アジアのフィリピンへの戻る決意をした。

愛すべきルームメイト、NKとの生活が始まる

フィリピン到着2日目の深夜2時頃。僕の部屋の扉が空いた。ルームメイトがやってきたのだ。寝ぼけながら、「hi」なんて、言ってまた眠りについた。朝、起きると確かに隣にルームメイトがいた。大柄な男だった。

「はじめまして、お名前は?」
「ユナンギだ。」

「ここでは、英語のニックネームを貰うと思うんだけど、ニックネームは?」
「英語のニックネーム?自分は、まだ貰ってない。」

もの凄い、礼儀正しい韓国人だった。しかし、英語は殆どと言って話せないから、僕らはよく分からないジェスチャーを交えながら、会話した。彼は、英語に詰まると時々韓国語で僕に話して来て、分かるか?なんて聞いてくるのだが、勿論分からず、お互い、はにかむ。後日、彼もニックネームを貰ってきた。名を「NK」と言った。ユナンギの省略系らしいが、ニックネームがNKとは、なかなかのセンスである。

身長185程。体格はよく、日本文化を良く知っていた。何より、僕に対してもの凄い親切だった。多分、僕の方が1つ年が上だったからなのだろう。トイレに入る時もシャワーを浴びる際も、必ず僕に先を譲ってくれた。

留学生活の始まり

翌朝、僕らは聞き慣れないチャイムで起床する。5時台。日の出と同時くらいである。まだ開かぬ目をこすりながら、廊下へ並ぶ。他の部屋の生徒も出ていて、その光景は寝起きのナメクジが塩をかけられ、うな垂れているような悲壮感が漂っている。こうして、僕らの生活は始まった。

毎日、朝5時頃起きて、シャワーを浴びる。朝食→単語の勉強&テスト→授業→授業→授業→昼食→授業→授業→授業→夕食→授業→センテンスの勉強→テスト→復習&予習→就寝10pmという生活なのである。中々凄い。スパルタ校の代表校として有名なEV。
学校は9割が韓国人。他が、日本人、台湾人、ベトナム人、中国人。授業は6コマ。2コマがマンツーマンで、文法とプレゼンテーションが必須。残り2コマは、自分の選択で取れる。僕は、ディスカッションと、メディアコミュニケーションなるものを取った。

1限。最初はネイティブのクラス。サンフランシスコ出身の、ジョンのディスカッションのクラスが始まる。50歳くらいのダンディーな雰囲気漂うジョン。
「今日は初日の一コマ目。皆で自己紹介をやろう」と、もの凄い爽やかな笑顔で僕らを迎えてくれる。口癖は「Cool」。それも、親指を立てながら。

彼のクラスのテーマは、僕にとってなじみのない、「神は存在するか、ゴーストについて、死後の世界」等で中々議論しづらく、苦戦した。そもそも、英語が話せないのに、こんな難しいテーマを何故設定するのか?なんて事を思いながら、あっという間に終わる。そして、直ぐに移動して2限のメディアコミュニケーション。
ここでは、自分たち好きな新聞や、テレビの記事を選び、発表。実際に学校内で取材をしたり、自分で広告を作って発表をしたりした。

このクラスでは、韓国人生徒ジェイソンがとにかく話す。文法も発音も決してよくないのだが、何を言いたいのかは良く分かる。毎月のレベル分けテストがあるのだが、彼が先月のTOP。彼から学んだ事はすごく多くて、とにかく自分が思いついた単語を口に出すという事だった。まず、僕らは「英語を話す事」の慣れが圧倒的に足りないのだ。独り言でもいい。とにかく話す事。口に出す事。これは、ジェイソンから学んだ最初の大切な事だった。

EVに行ってから、最初に出て来た壁はは、発音だった。もの凄い簡単な単語が通じないのだ。

「どこ出身?」
「日本だよ。」

この日本「Japan」の発音を直された時は、もの凄い悲しい気分になった。なんと、母国の国名を直されるなんて。ただ、大体直される単語も分かってくる。RとL、THの発音、Nの発音、Aの発音。英語を勉強してから、長い年月が経ち、くせのようになっているので、中々直らない。文法のクラスでも、文法以上に発音を多く直された。他の韓国人にも、少し笑われながらも少しずつ気をつけるようになる。

愉快な日本人の仲間達

9割程が、韓国人の中、少しだけ日本人もいたので、少し紹介したい。歳が近く、キャラが濃い人が多かった。

40歳政治家秘書のテイラー。

テイラー(政治家秘書)は、クラブとシャンペン好き。見た目はもの凄い真面目で、とても博識で僕らは尊敬しているのだが、いつもクラブの事を考えているみたいだ。純粋に、踊る事が好きらしい。前妻は、中国人だったらしく、国際経験も豊か。テイラーから、シャンペンについてこのフィリピン留学中に色々と教えて貰った。一度、セブ最大のジュリアナで飲みすぎて、タクシーから嘔吐した時にも助けれる。

沖縄が送り込んだギャル、サリー

名はサリー。沖縄の綺麗目のギャルを卒業したCA。趣味は、酒。もの凄いフレンドリーなのだが、確実に勉強をするタイプには見えない。なぜ、このフィリピンの刑務所と言われるEV校へ来たのか、さっぱり分からない。外見によらず、真面目な人なのかも知れないと思ながら、単語テストの時間を迎えた。期待を裏切らず、彼女は出来なかった。

そして、翌日から、単語テストに来なくなった。食事中にポン酢を持ってきていて、大体の料理にかけたり、大のクラブ好きという事が分かり、クラブポン酢というあだ名を名付けた。このクラブポン酢に政治家秘書のテイラーが絡むともの凄い科学反応を生む。ある週、クラブポン酢とテイラー達でクラブに遊びに行っていて、僕は途中合流をした。既に2人とも記憶無しの泥酔状態。シャンペン、ドンペリを既に開けていた。交差点全て緑信号のアクセル全開の危険な状況。その後もミミガーと呼ばれる酒を一気のみしたりしながら、場は荒れる。酒は飲んでも飲まれてはいけない。

ブラックペーパーの罠にはまる、かな

学校が始まって、第2週目くらいだっただろうか。ふんわりとした印象のNYのカナが、ある地獄にはまる。

授業の最後、夜8時からは、センテンスのテストが行われる。事前にもらった50文を暗記し、それをテストされる。沖縄ギャルのサリーは当然の如く序盤でギブアップ。このテストで問題を起こすのは、NYのカナ。日本では化粧品の販売をしていたらしく、いつもにこやか。このフィリピンの後に、NYに行くようだ。

このセンテンスのテストで不合格になると、罰則がある。通称:ブラックペーパーと言われるものだ。白紙の紙を渡され、余白が無くなるまで文章を書き続けなくては行けない。勿論、左上から右下までびっしりと書かねば行けない。講師のジャッキーは、「私は、ジャッキー。趣味は、ブラックペーパーを集める事。宜しく」にこっと笑顔で言うクレオパトラ似の28歳。一回もらうと、全部を埋め尽くすのに3,4時間はかかると言われている。これをカナは、連日もらって毎日眠そうにしていた。

実は、この単語、センテンスのテストは多くの学生を困らせており、ルームメイトNKも日々、悶えていた。韓国人は、僕らよりも多い毎朝60単語程覚えなくてはいけないのだが、彼は英語初心者という事もあり、全てが未知の単語らしい。これを覚えるのに毎日3,4時間もかけている。そんな訳で、彼が寝るのは深夜2時頃。僕がいつも先に寝ていたのだが、その後彼は部屋の電気を消し、電気スタンドにタオルをかけて、僕に光が当たらないようにしながら、単語を呟いていた。

ある日、「foolish」と何度も連呼するので、どうしたのかと聞いたら、新しい単語がfoolishだったようで、笑った。ただ、3週間後、彼もしっかりブラックペーパーをもらっていた。彼の口癖は、「みち、僕は単語テストが嫌いだ」

韓国が好きになった

学校に慣れ始めて来た頃、僕とあくは韓国人と仲良くなろうと必死になっていた。仲良くなるには、勿論韓国語を覚えなくてはいけない。僕は、恵比寿で一緒にシェアハウスをしている、友人に連絡を取った。彼は、1年前に同じ学校に通っていて、今では韓国語でなんだか分からない事を言っている。

「おびちゃん。家でいつも使ってる韓国語を教えてくれ」
「了解です」

3つ程、使える韓国語が送られてきた。

一つ目:一目惚れしました。
二つ目:僕みたいな男ってどう?
三つ目:この世の中で、一番綺麗な星を見つけた。 君だよ。

日本で一回も使った事が無いフレーズなのだが、猛練習をするアクと僕。ルームメイトのNKに発音を直してもらったりしながら訓練を重ねる。そして、Jooと言われる、狐目をした子を呼び出した。練習の成果あってか、僕らはこの文章だけは不気味なくらに、綺麗に言えるようになっていた。当然、返答に困るJoo。他の韓国人の男もおもしろがって、囃し立てる。そして、返ってきた言葉は、「Impossible」。不可能です。

この後数日間、アクは面白がって言い続けていたら、他の韓国人の男に、「アク。残念だけど、Jooは諦めよう。彼女は、君に対して疲れている。君を嫌いっていう訳ではないんだ。もう、憎んでいるんだ。だから、もう諦めよう。それが、彼女のためだ」と真面目に言われる。それから、数日落ち込むアク。中々、国際恋愛なんて出来ない。

韓国人と接している中で、日本の文化、特に音楽がかなり韓国で流行っている事を知った。安室、浜崎の認知度は勿論高く、スポーツ選手、漫画、ドラマ、女優も、もの凄い知っている。逆に、韓国の何を知っているかと言われると少女時代とKRARくらいのものだったので、もう少し韓国について知っていたら、盛り上がったのかもしれない。中でも、日本の歴史専攻をしている学生がいた。名前は、MK。※僕のルームメイトはNK。

彼は、プロ野球の王貞治、長嶋、野茂、伊良部を始め、昔の世代の選手を知っており、「現在は、イチロー、松井が有名だと思うけど、実際に選手としては、誰が一番なんだ?」なんて聞かれたりした。さらに、僕らに会うと急に「天皇万歳」なんて言ってきたり、歌を歌っていると、「君が代、御願いします」なんて言ってきたり、誰かが裏切りをすると「明智」なんて、中々聞かない単語を知っていたので、僕らは笑った。

ただ、嫌いな国調査ランキングでは、日本は大体1位だという事も知った。文化が浸透しているのに、嫌い。強制的に日本が韓国に文化を浸透させたという事なのだろうか。少し複雑な気持ちになりながら、彼らのプレゼンのスピーチを聞いていた。ただ、週末は一緒に日本食を彼らから誘われたり、一緒にサムギョプサルを食べに行ったりした。同じアジアンで、国も近いからなのか、笑いの壷も似ていたし、学生時代は、受験勉強に負われていたり、親は子供を大企業に行かせたい等、日本でも聞くような現象を聞いた。似ているけれど、違う国籍。

ある休日、フィリピンに大地震が起こった。休日の朝8時頃。朝ご飯を食べようしていた時、部屋が揺れた。最初は震度2くらい。その直度、震度5程の強い揺れが襲ってきた。休日だったので、部屋でのんきに寝ていたのだが、慌てて上下を着て外に出た。僕らの建物が揺れ、白い煙を上げながら、天井が落ち、ヒビが入っていくのを目の当たりにした。プールも波を打ち、他の生徒も必死に出てくる。宿泊施設が全壊する。本当にそう思った。韓国人の女の子は固まって泣いていた。けが人が出なかったのが、奇跡に近かったと思う。

暫くして、NKも部屋から出て来た。僕をみるなり「なんで僕を連れていってくれなかったんだ。失望したよ」と言われる。確かに、韓国では地震は無いと聞いている。地震の際に、どのように対処をすればいいのか知らないのだと思う。僕も必死すぎて、彼を部屋に置き去りにしてしまったのだ。素直に謝った。その夜、大きな余震が来るかもしれないという予報のため、多くの学生は、外にマットレスを持っていき、集団疎開のような形で寝ていた。海外では、日本は地震大国のイメージがあるようで、こんな時日本人はどのように対応するんだ?と多く聞かれた。

そして、フィリピンの地震は治まらなかった。執拗に続く余震。揺れる度に、怖がるフィリピンの先生と韓国人。ここ何十年かの中でも最大の揺れだったらしく、怖がるのも無理はない。韓国に帰った学生も何人かいた。僕のマンツーマンの先生は、震源地が故郷だったようで、ここ数日家族と連絡が取れないという。普段はもの凄くテンションが高い先生なのだが、この時ばかりは、睡眠不足で目の下にクマができており、精神の状態が普通でない事を僕に謝っていた。

僕は、話しかける言葉が見つからなかった。むやみに大丈夫なんて言っても気休めにならないし、さらに英語で話さなくていけないのだから、より困難を極めた。なので、僕は歌った。We are the world とAmazing graceを。こんな時に歌はいい。

1ヶ月が経ち、クラスが変わった。僕は、テイラーと一緒のクラスになる。ここから、プレゼンのクラスでは、プレゼンの後にディスカッションをする形に変わった。ある日の話題は、国際結婚。プレゼンターはテイラー。国際結婚の善し悪しについて、語った。デメリット:お互い決して完全に分かり合える事が無いという事。前妻が中国人だった、テイラーの意見は経験談からきているので、先生も含め僕らは頷く事しか出来なかった。宗教も違う、思想も違うし、生まれてきた環境が違う。根底で、理解できない部分があったんだ。テイラーはそう語った。

先生がすかさず「それって、国際結婚に限った事じゃなくて?」
テイラー「ごもっとも」
先生「その問題ってどうやったら解決できるのかしら」
テイラー「この事実を無視する事です。ただ、出来なかったので、離婚したんだけどね。はっはっは。」
なんて、陽気に語るテイラー。結婚の秘訣を聞こうかと思ったけど、止めた。

テイラーの陰謀

そして、翌週。テイラーが学校を去る日が近づいて来た。いつも何かと話題のテイラーがいなくなるのだから、僕らはざわめいていた。事件は、週末金曜日に起こった。金曜日の夜、テイラー主催のフェアウェルパーティ(バイバイパーティ)が行われた。韓国人も含め、20人程で集まり、飲んだ後、いつものようにクラブで楽しむ。時刻は23:20。僕らの門限は、24時。破ると、罰則を貰う。ペナルティー5。これは、翌週末に外に出れない事を意味する。この刑務所のような場所で週末も出れないとなると、気が狂うのは間違いなかった。他のメンバーは皆寮に戻る中、僕らは近くのラーメン屋に到着。どうしても締めのラーメンが食べたかった。23:40。店員に急いでくれなんていいながら、時刻は50分をまわったの確認したのが最後。僕は必死になって食べ、寮に走って戻った。テイラーとあくはまだ、ゆっくりとラーメンをすすっていた。僕は、大きな門を開け、息を切らしながら、学生証を探すが無い。暗闇から、マネージャのピーターが現れる。

「今何時だと思ってる?」
「24時かな」
「5分遅刻だ。なぜ、遅刻した?」
「ラーメンを食べていて」
「ラーメン?遅刻したらどうなるか分かっているんだろう」
「はい」
「月曜日にオフィスに来なさい」

こうして、僕は、減点5を貰ってしまった。テイラーとあくは、後にゆっくりと現れた。

「1分遅刻しても1時間遅刻しても減点は5点でしょ?そしたら、朝まで踊ってた方が良かったかなあ」

なんて言いながら、2人も減点5を貰う。ただ、テイラーに関して、この週末で学校を出る予定なので、減点を貰っても何も問題は無い訳だ。軽やかに笑うテイラーと落ち込む僕。そして、これをテイラーの陰謀(2013@セブ島)と僕らは名付けた。そして、翌日テイラーは静かに学校を去った。

テイラーが去って、日々が平凡に流れ出した頃、ルームメイトNKが急に恋の話をしだすようになった。僕が部屋で久保田利伸のLA・LA・LA・LOVE SONGをかけていたら、その曲非常に良いね。と褒めてくる。データで持っていたので、あげたら、シャワーを浴びながらさびの歌声が聞こえる。授業の帰りに偶然、NKと女の子が手と繋いでいるのを発見した。その夜、NKは僕にいった。
「みち。僕はどうやら、ある女の子に好意を抱いているようだ。でも、恋では無いんだ。どうすればいいと思う。」
といいながら、急に雄叫びをあげ、ベットをたたき出す。半分笑いながら。これが、恋の初期症状だったのだろう。NKは、何か困った事があるとベットを叩く。単語テストでうまくいかなかった時もその行為を行う。
「でも、僕はこの後カナダに留学が決まっているし、あの子は韓国に帰る。悲しくなる。だから、恋には落ちない。決して、fall in loveしない」
そんな事を言っていたのに、数日後彼らは付き合いだした。この学校では、やたら恋愛関係を結ぶ方々が多い。勉強をしに来ているのか、恋愛をしに来ているのか分かったものではない。半分強がりで言っている。

愛すべきNKがお腹をこわす

とある日曜日、NKの様子がおかしい。お腹を抑えながら、悶えている。僕がシャワーを浴びていると、「みち、緊急事態だ」なんて言うので、シャンプーを頭につけたまま、バスルームから出た。どうやNKは、お腹を壊したようだ。僕は、日本から持参した、正露丸を彼にあげた。

「これ、もの凄いクサいから気をつけてね」
「日本の薬なら信用する」

なんて言いながら、彼は鼻をつまんで飲んだ。口にいれた瞬間、あの強烈な匂いが彼を覆う。今まで聞いた事の無いような発狂のしかたで、彼は崩れ落ち、ベットにダイブしていた。なぜか、その姿を見て笑ってしまう、僕。翌週から、治っていたようなので、結果オーライと言った所か。ただ、正露丸の匂いは、強烈なので、あげる際には、細心の注意が必要。

そして、フィリピンとのお別れ

このように楽しい、フィリピンの生活にも最後の週がやってきた。多くの別れがあった。勿論、NKとの別れもあった。NKとの最終日、僕らは、学校生活について語り、日本、韓国の事について、そして、僕らの将来について語った。そして、彼から彼のメッセージ入りの手帳を貰った。僕も、彼に手紙と僕らが好きなスティーブ・ジョブズの名言の抜粋を彼に渡した。アクもNKともの凄い仲が良かったため、彼が校舎からでる直前、アクは泣いていた。この週末、近くにある日本の焼き鳥屋さんでささやかなパーティを行いながら、2ヶ月を振り返った。この滞在で、先生の言っている事は理解できるようになった。話す事は、年老いた亀があくびする程遅いのだが、少しは話せるようになった。ただ、CNN等を聞くとまだ何を言っているのかは分からない。そんなレベル。

貴重でもの凄く、充実した日々を過ごす事が出来た。単語、センテンス、文法もプレゼンの授業も実りがあった。その他、何よりもフィリピンのセブという場所にたった2ヶ月いただけなのだが、もの凄い多くの笑顔を見た。売店のミッチェルも、食堂のおばちゃん達も、警備員の人達も陽気で明るかった。先生も廊下で会う度に僕の名前を呼んでくれた。近くのシェルの店員さんも僕らが週末に行くと、久しぶりなんて言ってくれた。居酒屋の店員さんも僕らに優しかった。最終日、起きるともうNKも去っていて、僕一人。授業へ向かう途中、この居心地のいい空間が明日から無くなる事を考えると、寂しかった。

ただ、僕は次の場所に行かなくては行けない。最後のクラス、一番大好きなマンツーマンの先生Angelieのクラスが終わり、「学校生活はどうだった?」と聞かれた際に、今までの思い出が溢れ返り、狭い個室で泣いてしまった。「涙じゃない。汗なんだ」というのが精一杯だった。街は確かに少し汚い場所もある。ストリートチルドレンもいる。ただ、いつも笑顔のフィリピンの人達の印象は、もの凄い強く、決して忘れない。彼らのアイデンティティはホスピタリティと言われている。ありがとう、フィリピン。

机の上にメモを残して、僕は出た。


バンビエンからバンコク

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 翌日さおりさんはベトナムに向けて出発し、その翌日松之助はバンコクへと向かった。一人取り残された僕は、この静かなバンビエンの街を歩き回った。夜入ったお店で特にする事も無かったので、ふとテレビに目をやると、バレーボールの試合をやっていた。日本対タイランド。お店にいた客も特に何もしゃべらず、見入っていた。久しぶりにみるバレーの試合。昔、スーパー女子高生と言われていた木村選手がもうリーダーのような存在になっていて、時が流れたのを感じる。ただ、結果は日本のストレート負け。少しがっかりしながら、宿に戻ると、宿の気さくな兄ちゃんも「日本頑張ったけどな」なんて僕を励ましてくれた。手すりの無い階段を上って部屋に入り、雨の音と共に眠りについた。
 
 翌日の最後の朝、いつものOthersideレストランに行き、スタッフの皆にお別れをした。最後にもう一度サンドイッチとビアラオを頼む。
「行くのか?」
「これからバンコクに行ってくるよ」
僕はみなと握手をして店を後にした。Jdi’sバーを横切り、Jdiに手を振った。彼は椅子の上で横になりながら僕に手を振ってくれた。
さようなら。そして、ありがとう、バンビエン。不思議な街、バンビエン。

 バンコクへ向けたバスに乗り込み、途中で簡単なラオスの出国手続きと、タイへの入国手続きをする。空港とは違って、電車の手続きは本当に簡易。荷物検査も無し。拍子抜けで、タイへ入国。タイ入国から、バンコクまでは寝台列車だった。寝台列車はなぜだか好き。列車に乗って起きたら、朝になっているというのは、何か特別なように思えるのだ。起きたら、全く知らない世界に連れて行かれるようで。列車の前では、車掌さん達が一列に並んで出発前の準備をしている。その横を通り過ぎ、電車の中に入り込む。2等席は、ファンのみのクーラー無しのタイプ。中に入るも自分の席が見つからない。車内をうろつく、車掌を捕まえて聞いてみた。
「僕の席が見たらないんだけど」
チケットを見た車掌さんは、座席にある上の小さなふくらみを指した。
車掌さんがペンチを持って来て、そこのふくらみにペンチを合わせてまわすと、ふくらみがゆっくりが開き、座席の上に新しい空間ができた。ほらなと言った顔で僕を見て、元に戻す。後1時間後に作りにくるから、それまで待ってろと言われ、近くの席に座る。中々出発しないので、1等席を眺めにいったりして、時間をつぶした。窓の外からは、相変わらずおおい茂った木々が見える。そして、僕らの寝台列車は、静かに動きだした。なんの、汽笛も鳴らさずに。

 電車は、もの凄いゆっくりと動いた。バスで移動しても電車で移動しても同じくらいの時間がかかると言われた理由がなんとなく分かる。乗客は殆ど現地の人のようで、日本人は、僕と向かいのあいさんのみのようだった。バンビエンの途中のバスから一緒に来た。途中でかばんの中からぬいぐるみを取り出して、「こちらが佐々木さんです」なんて丁寧に紹介してくれた。他にもかえるのぬいぐるみも持っていた。少しシャイな人なのかと思いながら話していたのだが、やはりとても不思議。ボリビアパーマのさおりさんもそうだが、ラオスで会う日本人の方はみな不思議。少なくても、旅にぬいぐるみを持ってきた人を見たのは初めてだった。僕の知らない日本から来た、異星人。東南アジアを1ヶ月と今後ドバイ、オマーンあたりを回るようだ。その後も、アフリカに住む、ハシビロコウという鳥についての話を聞いたが、この話もまた僕の生きてきた世界では聞いた事がない単語だった。日本といえども、広い。

 しばらくして、車掌さんが僕らの2階席を作りに来てくれた。他の皆はカーテンをしめ、電車の中には通路だけが見えるのみになった。直ぐに他のみなは、眠りについたようだ。寝静まった電車は、だれもいない廊下のように急に静かになった。線路を走る車輪の音だけが聞こえる。
そして、眠りについた。朝目覚めると外は雨だった。東南アジアに入ってから、雨によくあう。ピンク色のタクシーが町中を走る。バンコクに到着したのだ。殆どの乗客も同じ駅でおりた。駅の近くのカフェ入り、マンゴージュースとパッタイを注文する。僕の隣で陽気な店員が蟹が入った美味しそうなまかないを食べていたので、僕がそれをじっとそれを見つめていると、彼はしょうがないなといった様子で少し分けてくれた。宿の情報を少し調べてから、僕らはバスに乗った。バスの前方にファンのみが回っているタイプのバスだった。この東南アジアの日中をファンのみというのは、少し拷問のような熱さ。バスの中にお金を徴収する男が立っているので、お金を払う。20円程。筆箱より少し大きい金型の缶を開け閉めしながら、一定の音を鳴らし続け、新しい乗客からお金を徴収する。非常に無口な男だった。畑で懸命に農作物を取る農夫のように静かに業務を行う。僕らは、バックパッカーの聖地、カオサンロードを目指していた。彼にどこで降りればいいのか聞いたのだが、彼はただ少し頷き何も返答をくれない。質問が通じているのかどうか不安のまま20分後がたった時、彼がそっと僕らの方を振り向き、頷いた。次の場所で降りろという意味なのだろう。

 降りた場所から10分程歩いた場所にカオサンロードが見えた。多くの店が混在し、様々な匂いが漂う。セブンイレブン、KFC、バーガーキングといった僕らが良く知っている店も沢山見える。子供が適当に並べたようにでたらめにお店が雑多に並び、また人で混合っている。もの凄い静かなラオスから移動してきた僕は、もの凄い刺激的だった。そしてまた、松之助と落ち合った。カオサンでたこ焼きを勿論やったのだが、さすがはカオサン。沢山の飲食物が並ぶこの中で、中々たこ焼きに注目が行かない。全てを焼ききって、一度宿へと戻った。
 夜、僕らはもう一度カオサンロードに繰り出した。僕は、パッピを来て、松之助はドラゴンボールのフリーザのコスチュームで。顔をしっかり白く塗り、アイシャドウも入れた完全の状態。その夜、彼はカオサンロードで完全にヒーローになった。通り過ぎる外人が、もの凄い勢いで「フリーザ!」と言いながら、写真を一緒に取っていいかなんて求めてくるのだから、その光景は完全にスターそのものだった。そして、同時にドラゴンボールの認知度の凄さを知った。

 松之助のように金色の全身タイツを着たり、フリーザの格好をすると外人、現地人かまわず気さくに話しかけてくれる。万人が出来る事ではないが、何か話すきっかけが欲しい人がいるならば、この手法はとてもいいのかもしれない。翌日の朝、松之助がバングラデシュに向けて旅立つというので最後の夜をしっぽりと楽しんだ。ハノイ、ルアンパバーン、バンビエン、そして、バンコクと4カ所で会った。この僕の東南アジア編の旅は、殆ど彼と一緒だったと行っても過言では無い。日本では何の会う約束をしていなかったのにも関わらず、偶然ハノイでメッセージを送ったらたまたま近くに居て、会う事になって。会っている日は、ずっと昼からビールを飲んだ。ラオスのマッサージ店で2人とも股間を触られたりした。男に。また、世界のどこかで会おうなんて思いながら僕らは、別れた。そして、僕はこれからフィリピンのセブ島へ。英語の語学留学。毎朝、5時台の点呼から始まり、夜8時過ぎまで授業があるという超スパルタ学校へと向けて僕は飛行機に乗った。


バンビエン_チュービング

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翌日、良く晴れていた。Othersideレストランに行って、いつものサンドイッチを頼む。
「今日は、チュービングをしよう」
近くの川を見ながら僕らは決めた。
ここバンビエンでは、夜のマリファナもそうだが、観光地としては昼のチュービングというので売り出しているのである。チュービングとは、固いゴムで出来た浮き輪の上に浮かびながら、川を下るアクティビティである。このバンビエンには、その川の途中にいくつののバーがあるので、立寄り飲んではまた川を下っていくのである。中々こんな最高のアクティビティを見つける事は難しい。

川の上流まで乗り合いバスに乗り移動した。アメリカ、イギリス、イタリア、オーストラリアと国籍豊な空間。この時、松之助は金色の全身タイツを来ていたので、お決まりのようにいじられる。15分程度バスを走らせると、上流にたどりついた。川に足を入れる。水は少し冷たく、気温はやや暑め。環境は、上々。川の流れは、思ったより早い。チューブを川に浮かし、真ん中の穴にお尻を入れる。そして、ゆっくりと動き出す。風呂の湯船に浸かるような体勢が一番楽のようだ。上を見上げるともの凄い綺麗な青空に真っ白な雲が少し浮かんでいた。Othersideレストランから見える山が、もの凄く近くにある。

開始3分程して、僕のチューブが岩の間に挟まった。一度チューブから降りるのも面倒なので、体をゆさゆさを動かしチューブを岩から外そうとした。次の瞬間、チューブがひっくり返り先に流れていってしまった。僕は笑いながら、「今から先に流れたチューブを取りに行きます」なんて言いながら川に潜った。

僕はあまりにも川を知らなすぎた。川の中の流れはもの凄く早く、一瞬で僕は飲み込まれてしまった。決してカナヅチという訳ではない。そして、徐々に徐々に川の上で顔を出せる時間が短くなってきた。チューブは遥か先に流れてしまい、そして、もう元の場所に戻る事も対岸にたどり着く事も出来ない状態になっていた。小学校の授業で「溺れてもパニックにならない事が大切です」というフレーズが何度も頭をよぎった。現在、パニックにはなっていないが、自分の力でどうしようもできない事を知った先には、パニック以上の絶望と恐怖が広がっていた。

一人の男が僕のチューブに向かって泳ぐ。
「そこでじっと待ってられるか」
疲れ果てている僕は答える事すら出来ない。川の同じ方向に流れる。
そして、川の中で何度も浮き沈みを繰り返す。息づかいが激しくなる。川の中で、どれほどの時が過ぎたのか分からないが、流れていったチューブを取りに行ってくれ、溺れている僕の手元まで届けてくれた。残った力を振り絞り、片手でチューブを掴み、水面から顔を出した僕は呼吸を必死にした。

近くの岸にお店があったので、そこにたどり着く。
岸に上がり、僕は嘔吐し、暫く動けなかった。
お店の中で仰向けになり、水を少し飲んでから目を閉じた。
気がついて目を開けた時、体の左半身が少し痙攣していた。
ペットボトルを持つ手が震える。蓋も締めれぬくらいに。

目を覚ますと松之助とさおりさんがそこにいた。
「大丈夫?」

チューブを取りに行ってくれたのは、松之助だった。偶然、彼は水泳部で、この激しい川の流れの中取りに行ってくれたのだ。本当に彼が居なかったら、僕はあの川で溺れていたと思う。本当に。ありがとう。

それから、僕らは静かに川を下り宿に戻った。夜、またこのバンビエンの街に、大雨がやってきた。


バンビエン_ラオス

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6時間程走り到着した。バンビエンの街は大雨だった。運が無いと思いながら、仕方なく近くのお店で雨宿りをしていたのだが、30分程立っても変わらず激しい雨が続く。屋根から落ちる雨の量が多く、目の前が小さな川のようにり、一方向に流れ出す。気温は、じとじとと暑い。一緒の屋根の下で待っているラオス人は、いつもの事さといったような猫が人間を見つめるような雰囲気で佇んでいる。この雨の中では歩けないので、近くにいたおっちゃんに、松之助から教えてもらった宿を知っているかを訪ねた。

しばらくすると、違う男がやってきて、モーターバイクの後ろに乗れとジェスチャーをする。近くにタクシーもいなかったので、僕は飛び乗った。目が開けられない程、雨は強く僕らを打った。前後に背負うバックパックが重く、モーターバイク上ではバランスが取りにくい。振り落とされないようにしっかりとバイクに掴まった。僕の不安をよそに、バイクの男は悪路悪天候の中、走り続ける。バイクが上下に激しく動きながら、車の間をすり抜けていく。

どれだけの雨を浴びたか分からない。ふと、静かにバイクのエンジンが止まった。

「めっちゃ雨に降られてとるやん」

宿の前でまた相変わらず、松之助に迎えられる。
ベトナムハノイからルアンパバーン、バンビエンと先に松之助が先に出発して、僕が後から追うように移動を続けていた。3度目の出会いでは、もうなんだか付き合い立てのカップルのような感覚に陥った。
濡れた荷物をカバンから取り出し、整理しながら雨が止むのを待った。
ここの宿にあるビリヤード台で松之助と韓国から来た旅人とゲームを行う。

中々、ゲームが終わらず、気がつくと雨は止んでいた。
僕らは、外に出た。
ルアンパバーンよりももっと田舎で、ずっと細い道が続いている。道端には、ゲストハウスとレストラン、そして、小さな屋台が並んでいる。雨があがり、皆外に出る準備を丁度始めている所のようだった。

松之助の行きつけという、お店に入る。Othersideレストラン。店には、壁が無く、外から入ってくる空気が気持ちいい。店の奥に、山が見える。真っ白な雲が山の上に乗っかり、中国の寓話を彷彿させる。久しぶりにカメラのシャッターを切った。陽気な店員が僕らにメニューを運んでくれる。お店が異常に縦長なので、僕らの席まで持ってくるまでに時間がかかる。僕らは、チキンサンドイッチを頼んだ。ここ、ラオスでは、もの凄くサンドイッチが安く美味しい。それが、一番の驚きだったかも知れない。昔、フランスがラオスを支配していた事に関係していそうである。サンドイッチばかり食べている僕らは、ラオスフードというのは、今だに何か分かっていない。お店のスタッフと「サバエディー」なんて挨拶をして握手をしたりして過ごす。とにかく、陽気なスタッフが多い。ビールを飲んでいるうちに日が暮れた。近くのJdi’sバーへと足を向け、飲み直す。

カウンターにいるのはJdi。この店の主である。年齢は40歳くらい。ちょい悪い顔をしている。良い味を出す、個性派俳優になれそうな雰囲気を持ち合わせている。

店に入りカウンターに座ると、Jidが僕らに口を開けて上を向けくれと言う。
何の事がよく分からないが、取りあえず口を開けた。
初めて入ったお店のカウンターで口を開けて上を向いたのは今まで無い。
そして、突然口の中に酒が注がれた。
僕らは‘やられたよ’なんて顔をして、彼はしてやってたりなんていう顔をしている。
こんな小粋な技でお客とのコミュニケーションを計ってくれるJidi。

最初の乾杯を済ませて暫くすると、隣にオーストラリアから来た女性2人が隣に座った。来て早々、何かJdiと会話していた。
暗闇の中で彼が深く笑った。

しばらくして、Jdiが彼女達に透明なビニール袋に入った何かを渡す。
そして、彼女らは静かにそれをズボンのポケットの中に入れる。
何かを。

隣に座っていた僕は、こっそりと彼女に聞いた。
「今の何?」

隣にいた女は、少し、はにかみながら僕を見た。
「マリファナ」

こっそり教えてくれた。

そう。このバンビエンという街は、ドラッグの街として海外では有名らしい。
勿論、ラオスでは違法である。

そして、この街にはハッピーシェイク、ハッピーピザと言われるのハッピー系の飲食物が存在する。驚く事に、マリファナをすり潰して、そのままシェイクに入れたり、ピザに入れたりするのだ。吸うのでは無く、直接食べる。とんだクレイジーな街である。彼女達は、店の奥に行って、マリファナを紙に巻き始めた。彼女らは、ただ吸うだけのようだ。あまいあの独特な香りが店内に充満する。彼女達は何事も無かったかのように、1本を吸い終わった後、店を出て行った。

この街は少し怪しい匂いがする。
平和な昼と怪しい夜を持つ街、バンビエン。
事件は、突然起こった。唐突に。


ルアンパパーンにコプチャイライライ

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人は見かけで判断してはいけない。
小さい頃に教えてもらった。

ドミトリーで過ごしている以上、どんな人が入ってくるか分からない。
それが楽しみでもあり、時々悲しい思いをしたりもする。

僕が起きた頃、2人は部屋に居なかった。
どこかでほっとした自分が居た。なんとなく荷物を綺麗にして、下の階へと下る。

外に出ると入れ墨が入った男はたばこを吸っていた。
遠い空を眺めていていた目が、僕の方を向く。
「あ、どうも。一緒の部屋の方ですよね。これから、宜しく御願いします」

気さくな方だった。名前はゆーじさん。第一印象とは大分違うので結構びっくり。
もう一人のボリビアパーマの女の方はさおりさん。挙動不信で何を考えているのは読めない。そして、髪で時々顔が見えない。もの凄い大人しそうなのに、髪の毛だけもの凄い激しいのでとても気になる。

ゆーじさんから、
「今日、ナイトマーケット行こうと思うんですけど、行きます?」
突然、誘われた。はい。行きます。
ゆーじさんとさおりさん。タイで会って、そこからここのラオスまで一緒に旅をしているらしい。ゆーじさんは、全く英語が出来ない。だから、英語ができる誰かと一緒に旅をしないと怖いのだとか。
「日本ではあまり怖い人っていないけど、海外で一人でいる事って本当に怖いよね」
ゆーじさんの発言がギャップがあり過ぎて、少し笑える。

海外になんで来たのか聞いて見た。
「ゆーじさんはなんで海外来たんですか?」
「なんか、タイとかラオス行ったって言ったらカッコいいでしょ。」
とても無邪気な子供よう。さおりさんも横で少し笑っている。

旅をしていると、全く初対面の人と一緒に行動をする事がある。それも結構長い時間。一緒にバスのチケットを買って、お昼を食べて、宿まで歩いたり。思い返せば、ルアンパバーンについた30時間のバスに、日本人の学生が2人乗っていた。彼らは、宿を予約していなく、ついた深夜に暗いバス亭で1晩を過ごそうかと考えていたのかもしれない。僕は、偶然5.5ドル程の安宿を取っていたので、一緒に来ないかと誘ってみた。全く背景が分からない僕についていくのは、結構勇気がいると思うが、彼らは一緒に来てくれた。そして、英語があまり話せないトゥクトゥクのおっちゃんに値段の交渉をしたり、宿のおっちゃんを叩き起こしたり、その夜一緒にヌードルを食べに行ったり。そした、そのうちの一人がTABIPPOのイベントに来てくれていたり。不思議なつながりがあったり、不思議な感情を抱けたり。

ラオスのナイトマーケットは連日、大勢の人で静かに盛り上がっている。夕方の4時頃から、何も無かった道に露店が作られ始め、6時頃にはその道は完全にマーケットと化す。衣類とお酒、そして装飾品が所狭しと道を飾る。僕らも人だかりに誘導されるように、自然と中に吸い込まれて行った。

ラオスのこのルアンパバーンにいる人達は、とても優しく親切な人が多いと感じた。面倒くさい客引きや、タクシーでのぼったくりも殆どない。そして、笑顔が素敵。昼間に親子でギターの練習をしている家の前に勝手に座り込んだ時、お前もやってみるかなんて言われたり。僕はギターなんて全く出来ないので、ビートルズのLet it beをギターをひかず、歌だけ歌ってギターを返したら、親子で笑っていた。なんでも、街全体が世界遺産になっているのだ。街全体が遺産なんて、とても素敵。そして、なんとなく分かる。

街に特に遺跡があるとか、有名なモニュメントがあるという訳でもないのだが、非常に心落ち着く街なのである。先日訪れた、アメリカのタホの街がオアシスだとすれば、ここは古の懐かしさからくる安心感に包まれている。メコン川を眺めながら、読書をしている外人もいたり、ランニングをしている人がいたり。何か大切な事を思い出させてくれる。僕は、祖父と祖母の事を思い出した。最近体調が良くないようなので、少し気になる。宿に帰ったら、連絡をしてみようと思う。余談だが、僕の名前は倫孝。倫理の倫の字に親孝行の孝の字で出来ている。今まで親孝行なんてあまりして来てないし、今回の旅も祖母祖父には黙って来た。親不孝にはならないようにしなくては。

結局ルアンパバーンには1週間程滞在した。特に遠くにも出かけた訳ではない。
この街に少しだけ、住ませてもらった。
居心地が良すぎて。
コプチャイライライ。

そして、次はラオスの中央部にある、マイナーな街、バンビエンを目指す。
ボリビアパーマのさおりさんと偶然一緒のバスで向かった。


ルアンパバーン

ラオラオとは、ラオスの有名な地酒らしく、アルコール度数は50度程。
昨日、松之助はこの酒が原因で記憶を飛ばしたらしい。なんでも、このラオスの地ではポリバケツみたいのものに入っているらしい。

「また、やつらがおる」
松之助は昨日絡んだラオス人を発見し、彼らに近づいていく。
男5人で、きたないテーブルを囲い、何かを飲んでいる。

「あれが、ラオラオや」
彼らと目が会った。そして、男達が僕らを手招きする。
既に目が据わっている。午後3時。

僕らは、座るなりショットグラスに透明な液体を注がれる。
【世の中で透明な液体は非常に危険である。】
これは、僕が大学時代に学んだ事だ。

【透明な液体は匂いを嗅いではいけない。
匂いはグラスからお前を遠ざけるが、目の前のグラスを避ける事は出来ない。】
これも大学で学んだ。

その禁忌事項を犯し、匂いを嗅いだ。

ガソリンのような匂いがする。

一瞬どころか、数秒これが飲み物かどうか疑った。
果物の王様ドリアンも匂いは強烈だ。ただ、味が奴を王様にしている。

5人の男は、じっと僕らを見つめる。
前門にラオス人5人。後門には、僕のプライド。

腕を曲げ、口の中に注ぎ込む。

まずい。
言葉にし辛いが、まずい。
田畑で、水の変わりにラオラオをまいたら、世の中の果物の全てが腐る気がする。世の中の終末を容易に想像できる味だった。

これをラオス人は飲んでいるのかと思うと、少し頭が痛い。
なぜか松之助もラオラオが好きなようだったので、同様疑いの目を向けた。

この5人の集団は、僕がルアンパバーンに滞在している間中、ずっと同じ場所でラオラオを飲み続けていた。ラオラオの地縛霊だったのかもしれない。

ラオスを散歩していると、女の人が働いていて、男があまり仕事をしないと行った印象を受けた。その最たる例が、こちらのラオラオの地縛霊達である。

夜は、ナイトマーケットの近くで10,000キープ※約100円で一皿に好きな料理をもり放題のお店で食し、アジアで最も美味しいとされるBeerLaoを飲んだ。
あいつと違って、本当に美味しい。ありがとう。BeerLao。
感謝をしながら、宿に戻った。

朝方、一人だった、僕のドミトリーがそっと開いた。部屋に全身入れ墨が入った男と、パーマで顔が見えなくなった女が一緒が入って来た。3人用のドミトリーなので、逃げ場は無い僕は、必ず挨拶をしなくてはいけない。朝、ベットの中でずっと寝たふりをしていた。この2人も来てからずっと寝ている。旅での疲れなのか、別の事で疲れているのか。

また、新しい一日が始まる。